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年末

年の瀬、葬儀を行った。コロナ禍でもあり、少人数であった。さて、通夜で式終了後に話をした。

最近、ある尊敬する方から死と来世の話をチャットでやりとりしていた。死後の世界と今を生きるをまっすぐに問われ、宗教家であるということより、一人の人間として向き合うことになった。

そこで、自分が気がついたのは、些か過激だが、来世の有無、浄土の有無が葬儀の根本なのか?という問いである。経典に書いてあるは、あくまで胡散臭い。なぜなら今生きている人は、死んだことはないからだ。あくまでも物語でしかない。そのストーリーを信じることで成り立つ話だ。個人的には輪廻転生をなんとなく感じてはいる。浄土もあったらいいな…行けたらよいなーとは思う。

だが、かつてのインドや日本、科学なき時代の来世観をそっくり今に持ってきて実しやかに話す。それに説得力があると思えるかと言われたら、正直、難しいと思う。個人的感覚を別として、来世の有無によらないで、なぜ経典を読み、引導を渡すのか。ここからは、宗教家のセンスによるが、これに応えなければ説得力がなくなるのではないのだろうか?

個人的には、葬儀とは、故人のいのちのリレーのバトンを受け取る機会ではないかと思う。その方のあり方を受け止め、自分の生き方に良き部分はモデルケースとし、悪しき部分は反面教師とする機会に…。

私たちは往々にして自分一人で生きていると考えたり、お金で物を買うことで自己完結しているかのように勘違いをする。

その物は、過去の死者の叡智を頂いた出来上がっている。車などは、それこそ叡智の固まりだが、我々はお金で所有してはいていると考えている。それを生み出した叡智と死者たちの努力を忘却して我々は過ごしていないだろうか。

葬儀とは、一故人を通してその叡智を感じる機会であり、自らの足元を見つめる行為ではないだろうか?縁に基づいていきている我を改めて見つめる。そして次世代へバトンタッチする人間としての自分を知る。如何にグッドアンセスターになれるかを感じる機会でもあろう。

来世の有無より、今を丁寧に生きるが大切だと話したし、そのための基盤となるものを確認するために葬儀や法事があると述べた。

そんな話をした。そこにいた葬儀社の社員は、来世を解かない僧侶は始めてでビックリしたみたいだが…

ブッダも来世観を認めてはいたが、悟ると輪廻転生しないと述べている。今を生きる、丁寧にいきるその向こうに、なにかあるとしても…それさえできれば怖くない。それを促す葬儀でありたいと個人的には思う



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