見出し画像

誉め言葉を受け取れない、の裏にあったもの

昨年末から、自律神経系を整えるセラピーを継続して受けています。身体感覚をとらえ、それを入り口にして本当の気持ちに気づき、深い気づきが自然に起こるというものです。四国にお住いのセラピストさんからオンラインで受けています。便利な世の中になりましたね。セラピーの詳細はこちら

先日の気づきが思ったより深かったので、書くことにしました。

私はオンライン家庭教師として高校数学を教えています。しかし、なかなか自信がもてないのです。実力が足りないんじゃないか?自分は他の先生と比べて劣っているのではないか?もっと勉強しなきゃ、などなど・・・これでは気が休まりません。

実際のところ、親御さんや生徒さんから喜びの声を結構いただいています。友人のお嬢さんに中学数学を一日教えたときは、「連立方程式の文章題の説明がとてもよかった、今まで分からなかったことがすーっと解けた」のように、母娘ともに大喜びでした。

どれぐらい誉め言葉を実感できないのかを示すできごとを一つ。今教えている高校生の、最初のご依頼のメールを印刷して何度も読み返しました。そこには、学習の現状やお困りごとなどが書いてあります。なるほど、この時に比べたらかなり改善したし、実際に、頼りにしている、ありがたい、という嬉しい言葉もいただきました。文面を眺めて「私はよくやっている」と自分に何度も言い聞かせました。それでやっと、頭でうっすら分かるというか。

上記の友人は、「もっと自信を持ったらいいのに」と言いました。この言葉を1万回ぐらい聞いたような。それをテーマに内面を探ることにしました。

セラピスト「誉め言葉が響いてこないとき、身体はどんな感じですか?」

「何だか自分が繭に覆われているような感じがします。白くて周りが見えない、無感覚です。良い感じではありません。」

セラピスト「子どものころ、人に褒められたときどんな感じでしたか」

私「母の誉め言葉に両面あるのです。褒めるフリして自分の方が優位だと示します。それが日常茶飯事でした。今でもそうです」

母は自分が一番でないと気が済まない人です。幼いころから、私が何か話し出すと、途中で必ず話を横取りしました。そして、自分があんなことやこんなことでいかに凄いかを、子どもの私に延々と語るのです。

母は、社会活動を活発に行っています。東日本大震災の被災地支援もその一つ。関西から東北に定期的に通っています。

「偉いね!」と思われたら、この先をお読みください。

「みんな私を頼ってくる」

「あの人は〇〇だからダメ!」

「私がいないと回らない」

被災地に限らず、「私がいないとやっていけない」人を見つけるのは、昔からです。家族仲が悪く揉め事が絶えないAさん、三回結婚して三回とも亭主運が悪い旧友のBさん、同居する母親の介護で私生活が事実上ないCさん、両親を早く失くして天涯孤独、過敏な性格で友達がいないDさん、などなど・・・(こうして書いてみるとすごいな)

夕飯の食卓は、母親の力を誇示する場となっていました(今も)。いわく、無農薬野菜とちゃんとしたお肉で栄養バランスを考えて料理をこんなに上手に作った。こんなに頑張って作っている人他にいないよ。みんなレトルトなんかでいい加減な食生活なんだから。ありがたく食べなさい。おかずは順番に食べなさい。おかずばかり食べてはいけない、ご飯もちゃんと食べなさい。どうしてそんなにブスっとしているの?嬉しくないの?そして、子どもがこぼすとか何か粗相をするものなら、雷が落ちます。

・・・料理の味がしません。

勉強のことでも、たとえば中学の定期テストで私が学年1番を取った時には、すごいねと言いつつ「私でも中学で1番が取れるぐらいだから、〇〇(私の名前)なら当然1番を取れるわよね」という調子で、私は混乱しました。この人はいったい何を言っているのか?今ならこれがマウントだとわかるのだけど。

要は、母の誉め言葉に必ず毒が混じっているので、私は受け止めないようにしていたのでした。生き残り作戦として。大喜びで受け取ったら毒にやられてしまいますからね。

目の前の生徒さんや親御さんは、毒を混ぜたエサを私に投げているわけではありません。しかし悲しいかな、生き残りのために骨身にしみた作法は、そうそう簡単にはやめられません。人間は何といっても生き残りが最優先です。生きてこそ。だから、深く深く刻み込んで、誉め言葉が来たら「必ず」警戒モードになるようにしました。頭で考えたというよりは、身体(自律神経系)の精緻な働きです。命がかかっているときに頭で考えてから動くのでは遅すぎますから。

解除には専門家の手助けが必要です。私が受けているセラピーは、ちょっとしたエクササイズを行って、身体感覚がどう変化したかに気づく、という優しい手法です。セラピストが色々質問したりアドバイスすることはありません。その結果、心の目に見えていた繭が少し薄まって、向こう側に人の顔が見えてきました。セラピーの詳細

セラピストさんは、繭はもしや「解離」では?と言いました。

解離とは、トラウマの中で起こる苦痛、支援の欠如、自己や生命の喪失の可能性から、当事者の意識を切り離す時に使われる、自然な防衛機制である。

「レジリエンスを育む」p187)

小さな子供は無力です。親にすがらないと生きていけない。目の前の現実はあまりにも過酷でした。苦痛が大きすぎて感じると壊れてしまう。そして、(頭で考えたのではなく身体が自分を守るための働きとして)、きっと感じないという方法を選んだのでしょう。。。私は保育園、幼稚園、小学校、中学校を通じてたびたび解離していたようです。絶対的権力者たる親の意向に逆らえず登園・登校するしかなかった、恐ろしく悲しい時代でした。

時がたち、恐ろしい状況はもはや消え失せても、身体が自分を守るための働きはそのまま残っているので、人の誉め言葉を受け止めることができないのは当り前です。まずは、そうやって生き延びることができた自分に乾杯!そして、セラピストさんに伴走してもらいながら、古い仕組みを和らげて、人の好意を受け止められるようになり、もう少し楽にお仕事できたらいいなと思います。

セラピーの感想を載せていただきました。

(3月10日追記)

授業の準備として教科書を読み込み、プリントを作成しました。その時、「これでいいんだろうか?」「生徒に突っ込まれたらどうしよう」「何か見落としはないか」のような心配の声があまり聞こえてこなかったような気がします。心配の度合いが3割程度減少したと思う。心配が募ると肩が凝る、お腹の辺りが固くなる、といった身体の変化も、あまり感じませんね。




いただいたサポートは、教養を深めるために使わせていただきます。ありがとうございます。