私の仕事〜続ける理由〜
こんにちわ、ぐっちです。
今回は私が看護師になり地方から都会に出てきたことで無力だと感じ、看護師として本当にやりたかったことはなんなのか、このままでいいのかと立ち止まった時の話をしたいと思います。
プロファイルにもある通り就職と同時に私は鹿児島のど田舎から神奈川県に来ました。救命救急センターに勤め、毎日多くの方の生死と向き合っています。
就職して4年目頃から祖母が「縦隔気腫」「間質性肺炎」を患い、入院する回数が多くなりました。地元を離れているため祖母の情報は両親から仕入れるような状況でした。この時感じたことは、病状について全く分かっていないなと言うことでした。いわゆる両親は医療についてまったくの素人であり素人から祖母の病状を聞いても全く意味不明でした(笑)両親はまだ当時40代であったためそれなりの理解力があるはずなのに「なんか肺が悪いみたいだよ」だけでした。私が祖母の病名を知ったのは病気を患ってから約1年後でした。それも紹介状を勝手に開けたことで情報を仕入れたのです。そうでもしないと全くわからなかったです。
仕事をしながら連休がある時はなるべく地元に帰り、祖母や近くで見守る祖父、両親の現状を把握しようと努めましたが帰れても半年に1回程度でした。
それはお金がかかることや、地元が田舎であるため空港から親に迎えに来てもらわないと帰れないこともあり頻回に帰ると親の負担にもなったためです。
あとは単純に自分の遊ぶ時間も欲しかった(笑)
時にはテレビ電話をして祖母と話をしました。病気を患って1年もしない間に祖母は在宅酸素を使うようになりました。顔を見る度に痩せ細り、どんどん老けていきました。「食欲がない」「ご飯が美味しくない」そんな訴えに私の母は高カロリーのジュースや果物など出来る限りのサポートをしてました。
祖母がまた入院したと聞きお、見舞いに病院に行きました。
その頃には祖母の口癖は「苦しい」「息をするのが苦しいがよ」
もう何万回も聞きました。息をするたびに喘鳴が聞こえ透視をしているかのように祖母の肺の様子が目に浮かびました。
祖母は元気な時にいつも「いつ結婚するの」「早く子供を産まないと」とよく言っていました。孫の顔が見たかったのだと思います。そんな祖母が
「彼氏はいるのか?早く子供を産みなさい。ばあちゃんは見れないけどじいちゃんにちゃんと見せてあげてね」と。
自分に死期が近いことが分かっていたのと、生きているのが苦しく早く楽になりたい思いからの発言でした。
入院期間を終え退院し自宅療養をしていた時、祖母は自殺をはかりました。
結局は死に切れず病院に逆戻り。
すごく明るく前向きな祖母であったため私を含め家族全員にショッキングな出来事でした。一緒に暮らしていた祖父は「じいちゃんは見守ることしかできない。苦しいって言われても何もできない。お医者さんに任せるしかない」と言っていました。一番近くで祖母の変化を見ていた祖父はすごく辛かったと思います。
祖母が自殺を測り入院したと聞いてまたすぐ実家も帰りました。
前回会って2ヶ月も経ってないのに更に痩せ細っていました。
相変わらず「苦しい」。
「ばあちゃんはね、死のうと思って包丁で切ったの。でも力がなくて切れなかった。もう苦しい。息をするのも苦しい。早く楽になりたい」
そんな祖母に孫としての悲しみを捨て、看護師として
「そうだよね、苦しいよね。今までたくさん頑張ったもんね」と手を握り一生懸命共感と労いの言葉をかけました。
本当は「なんでそんなことしたの」と泣き喚きたかった。
一緒に写真を撮ってその日は帰りました。
神奈川に戻り1週間後に祖母は亡くなりました。
その日は仕事で夕方母から「もうダメかも」と連絡が入り急いで鹿児島行きのチケットを探しましたがその日の便はもうすでになかったので死期に間に合わないことがわかりました。母に連絡し「ばあちゃんとテレビ電話がしたい」とお願いしてテレビ電話をつなげてもらいました。祖母についているモニターと祖母の顔を見て、もうすでに呼吸をしていないのがわかりました。
「ばあちゃん、ありがとうね。よく頑張ったね。もうすぐ楽になれるよ」
その1分後に祖母の心臓は止まりました。
祖母の病室に集まっていた親族は私が来るのを待っていたんだねと言ってくれました。孫であり医療者でありながらも私は祖母に何もできませんでした。今までどこの誰かも知らない多くの人の命を救ってきたのに大切な祖母の命は救えず、尚且つ近くで最期を見送ることもできなかった。不甲斐ない気持ちでいっぱいでした。
なんのために看護師になったのか。このまま地元を離れて都会で過ごしていていいのか。自問自答を繰り返しました。
私は今日も神奈川の救命救急センターで看護師として働いています。
それは祖母が生前近所の人に自慢していたからです。
「孫はね、東京(田舎の人からしたら神奈川は東京)で看護師しているの。救急でね、たくさんの人の命救っているの」
私はこれからも自慢の孫であるために神奈川で看護師を続けます。
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