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はりヘルスもりおか

 実家がある益城町広崎のバス停。そこから、実家に続く一本道の入り口に「はりヘルスもりおか」がある。そこは、小学校時代の友人である森岡くんの実家。僕は「まーくん」と呼んでいた。おそらく森岡くんの父が鍼灸師なのだろう。うちの母親は、いつも通勤のとき、さりげなく挨拶を交わすという。自分と森岡くんの関係を知っているかは分からないが、母によると、何となく分かっているようなまなざしだという。

  母は昨年、腕を骨折し、その後遺症でしばらくはゆっくりとしか歩くことができなかった。それが、少しずつ歩く速度が変わり、小走りでバス停まで向かえるようになった。すると、森岡くんの父は「おっ、走れるようになったとね」とさりげなくつぶやいたそうだ。
  母にとっては、それが密かに嬉しかったという。特に明確な会話を交わさなくても、さりげなく見守ってくれる人がいる。それが地元なのかもしれない。

  8/1からhomeportでは、「soundtracks」と題した対談(対バン)ツアーが始まった。熊本、柏、福井、札幌をオンラインで繋いで、最期は北18条(札幌)で対面し、田中伸之輔著『研究的実践を組みなおす』の読者と田中くんが対談をする企画。初日の対談相手である田中事件さんが同日、ちょうど札幌に家族旅行で来ているということで、対面のhomeport(北20条)と田中くんをオンラインで繋いで対談がスタートした。

  その日の主役は1歳半になる事件さんの娘さんだったのかもしれない。homeportを縦横無尽に駆け回りながら、対談の意味・枠を拡張していく。対面に参加してくれた宮崎くんも含め、ここには血縁上の家族はいないんだけども、何か、家族で集まる行事のような時間がそこには流れていた。帰りにタクシーが走る北大通りまで田中事件ファミリーを見送るとき、そのことを(事後的に)強く感じた。これは対面だからこそ感じたことかもしれない。画面の向こうにいた田中くんはどうだったのだろう。今度聞いてみたい。

 翌日朝、職場に向かうため、最寄りの北18条駅近くのセコマで自転車の鍵を外そうとしたら、鍵穴の中で折れてしまった。しかたなく、駅の駐輪場まで後輪を持ち上げながら押していった。職場の最寄り駅である中島公園に着くと、母からLINEが届いていて、「昨日はお疲れ様でした」とあったので、「喫茶こん」と「焼鳥ひかる」の料理で満たされたhomeportの様子を写真で送った。その後、間髪入れずに「宮崎の祖母が亡くなった」との連絡が入った。

   知らせはいつも突然やってくる。2012年に父が亡くなったときは、仕事終わりに虎ノ門のPRONTOで先輩と飲んでいたとき。2023年の1月に祖父が亡くなったときは、ちょうど担当する授業の時間が始まる直前だった。
 突然は体調によい作用をもたらすこともあるが、その逆も多い。祖父が亡くなったときは、道中で風邪を引き、体調が悪化しているにも関わらず、手配済みだった佐賀と博多のゲストハウスにも宿泊して、その後、体調が戻るまでにかなりの時間を要した。
 以前、祖父が倒れたときは、自分が寝込んでいて、「もう行くしかない」ので、むくむくと起き上がり、成田経由で宮崎に向かった。成田付近のニュータウンにあるホテルで1泊し、「ニュータウン橋」付近を散策した。そのとき、はじめて叔父(弟)と、父のことを腹を割って話すことができ、滞在先の都城グリーンホテル近くのカラオケ店で、人生初の一人カラオケをした。

 自分の中には常に「体調」のことが頭をよぎるので、行くかどうか迷ったが、行かない理由も見当たらないので、急いで宿や飛行機を手配し、新千歳空港へ向かった。家に戻り、荷物をまとめ札幌駅に着くと、人身事故で列車がストップしていた。私が目指しているものは、いったい誰のための弔いなのか。急いで、バス乗り場へ向かい、出発20分前に空港に到着。無事に福岡行きのJETSTARに飛び乗った。

 夜20時過ぎに博多へ到着して、「古門戸 Common de -Hostel & Bar-」へ。既に旅が楽しくなっていた。熱気を帯びた夜風を身に纏いながら、博多埠頭のお膝元にあるスーパー銭湯へ。副鼻腔炎で嗅覚がほぼない中、塩分を多分に含んだ源泉のしょっぱさが嬉しかった。

 翌日、高速バスで約4時間30分かけて宮崎都城へ。安い革靴を買うため、叔父(兄)に近くのディスカウントショップに連れて行ってもらう。道中、「札幌に宿つくったんで泊まりに来てください」と宣伝する。葬儀場に戻るとhomeportの寮父であるナガノさんから電話。「風邪で体調が悪く、翌週末の宿泊の準備は山崎君一人でやってほしい」とのこと。8/9~11はsoundtracks Vol.2(8/28)に出演した大澤くんがhomeportの宿「かもめ」に宿泊することになっていた。

 どこに行っても「家族」的なものが自分に纏わりついてくる。しかし、この纏わり具合は、湿気を多分に含んだ不快なモノではなく、風のように自分のなかを透過している。歩くたびに家族が立ち現われては消える。それは完全に消えるのではなく、痕跡として残るし、また歩いたらいつか出会える。古門戸の受付のお兄さんとも一瞬で家族的会話が立ち上がって、またそれが全体の中に解消される。
 それは、根源的な自分の中の家族的なモノへの憧れと、それが手に入らない不可能性からくる、自分なりの新たな家族の可能性をつくる研究的実践なのかもしれない。

 通夜後の宴会で、祖母方の叔父から、祖母の旧姓を初めて知り、その家計の血の歴史について初めて聞いた。だから自分もずっと不安だったと初めて吐露した。「頑張り過ぎて疲れて寝込むことがこれまであった。でも死にたいと思うことはない」と話すと、「あ~それは大丈夫よ。それは人間誰しもあることじゃない。しょう君のその話を聞いて安心した」と祖母方の叔父は言った。

 その後、叔父(弟)に居酒屋に連れていかれ、「しょうくんとお母さんは俺が必ず守ると決めてる」と言われた。学生時代、常に勉学に明け暮れていた父のキャッチボール相手が叔父(弟)だった。翌日の葬式後、私はためらうことなく、祖母の遺影を抱え、霊柩車の助手席に乗り込んだ。ゆっくりと後方へ流れていく都城の景色を目に焼き付けながら、火葬場でも、最後のボタンを押す役目を自ら引き受けた。

 その後、熊本の実家に戻って、約3カ月ぶりにアートスペース田中事件の前まで来てみた。田中さんはまだ北海道にいるんだろうか?と思いながら。
8/28のsoundtracks Vol.2では「ずっとポジティブでいいんじゃない?」という話になったが、確かにそうだ。ずっと幸せで、楽しくていいんだろうな。

 homeportは続く。


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