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國分功一郎(2023)『目的への抵抗ーシリーズ哲学講和』新潮社

 2020年から担当している北海学園大学の観光経済論では、毎年、國分功一郎の『暇と退屈の倫理学』を授業の前半で取り上げている。観光を考えることは、地域経済活性化や旅行会社への就職に関心がある人に閉じられたものではない。労働と余暇から構成される現代の社会において、観光を自分事として生きることで、「いつの間にか盲目的に働き、束の間の余暇で休息して月曜日に向かう習慣」の外側へと向かうことができる。
 そのことを実感を伴って理解してもらうために、観光よりもっと身近な「暇と退屈」という観点から、わたしたちの余暇が消費にどっぷり漬かり、退屈が絶え間のない消費で無限に搾取され続ける現代社会の光景を論じた同書を解説している。
 わたしたちは暇になることを恐れているが、暇になることの中にこそ創造性が宿る。同書で語られ、語られ尽くされていなかった主張が今回の『目的への思考』で、学生との「対話」を通じて語られている。
 
 1週間前に、桑園のinsomniaで、北大のななめ通りに何らかの思い入れがある人たちの集いを催した。多摩ニュータウンに出自を持つ私は、大学の卒業論文やその後の修士・博士論文を執筆する過程で、広島カープやフェス、集落の黒獅子など、そのまちや社会に生きることの意味を与えてくれる集合的沸騰(デュルケーム)の源泉を追い求めて、これまではその構成員になろうとしていた。しかし、その試みはことごとく失敗した。それは確かな事実だが、一方で単純な失敗とは言い切れない側面もある。
 第一に元々、私の出自は多摩ニュータウンにあり、根無し草であることに居心地の良さの源泉があり、集合的沸騰は、観光客として疑似体験する以上のものは求めていない、あるいは、自分には「無理がある」ということ。第二に、「地元とは何か」を考える過程が、自らの地元を創出していたことにやっと気づいたということ。それに気づいたのは2022年4月から23年7月まで山形県長井市で地域おこし協力隊の活動をする最中だった。はっきりとした区切りはないが、北大の大学院に入学してから約15年が経過し、結果的にそれは人が幼少期を経て、青年へと移行する時期と重なるように思う。だから、現実の社会で私は38歳だが、ようやくこれから20歳に向かう季節になったのかもしれない。
 常に地元から疎外され続け、その裏側では地元を創出してきたこの間。もはや外部に地元を追い求める必要がなくなったから、今この時間・場所を共に生きている人たちと出会いたい。大学に入ったら、遠くの集落や世界にフィールドワークへと出掛けることも必要だが、一方で目の前の、まさに自分が生きているフィールドとも出会いたい。そんな思いで、普段は全く接点のなかった周囲の住民の方に「北20条でどう生きてきたか」を聞いてみたいと思い、わたしを含む4人がinsomniaに集まった。

 その場に誘った学生寮に住むたくろうくんが、「呼ばれて行ってみたら」で、当日の様子を以下のように書き記している。

 たしか北20条の暮らしについて聞くという話だったが、いろんな方向に会話は発展、筆者の地元や部活、手稲の富丘、お子さんの話、考えていた会話とはいい意味で程遠い話ばかりでした。

たくろう(2023)「呼ばれて行ってみたら」より

 本書では、目的を超え出たところに自由な行為があるという主張が全編を通して語られている。また、その自由な行為は、他者が現前する政治という場(ハンナ・アーレント)でこそ実現可能であると。私自身、当初は「北20条で生きてきたか」、そのライフストーリーを聞き取り、さらに何人もの人から話を聞きつづけ、いずれはZINEのようなものとしてまとめたいという構想、つまりは(ぼんやりとした)目的があった。
 しかし、insomniaの居心地の良さと、その場に参加してくれたGさんとの阿吽の呼吸で、「ビール飲んじゃおうか」と、サッポロクラシックを頼み、たくろうくんが来た頃には、「2階へ上がると出来上がった3人が談笑中」(「呼ばれて行ってみたら」より)の光景が生まれていた。もはや私はZINEにまとめなくてもよくなっていた。いや、結果的にいつかまとめられたらよいが、「出来上がった」この瞬間に、私は地元を生きていた。私自身のこれまでの研究成果がこの場でいかんなく発揮されていた。

 本書の第二部は「不要不急と民主主義ー目的、手段、遊び」と題され、「目的によって開始されつつも目的を超え出る行為、手段と目的の連関を逃れる活動」(本書179頁)として「遊び」の重要性が指摘されている。奇しくも、insomiaでの集いが終わったあと、Iさんと、遊びについてラインのグループでやりとりをする中で「桑園あそびばプロジェクト」についてご紹介いただいた。それに関連して、本書第二部、学生からの質疑応答の中で学生から以下のような問いが発せられていた。

 先生は真剣に遊ぶことが大事だとおっしゃっていて、では、真剣になることの条件は何なのだろう、それはやはり他者とある種の関係を持つことなんじゃないかと思ったんです。関係と言っても一方的な依存関係ではなくて、相互に依存し合っているような関係です。そこにはある意味で責任が生じると思います。相互理解と互いの互いへの責任、それが真剣になるための条件なんじゃないかと思います。

本書201-202頁

 他者と共に、真剣に遊ぶからこそ他者への信頼が生まれ、責任が生じる。それは自己責任という言葉で手垢にまみれた責任ではなくて、ただひたすら楽しい関係性の中に芽生える責任である。おなじまちに暮らしているあの人は元気にやっているだろうか。そんな楽しい責任が今の社会の裏側(バックヤード)で芽生えれば、監視カメラなど必要ない。そんな時間と場所を学生寮に住むたくろうくんと北20条に住む愉快な仲間たちと過ごした。

 本書の内容を書き進めるという目的をいつのまにか忘れ、本書を実践することの意味について、結果的に書き記したのでした。それは厳密には目的を忘れたのではなく、目的に捉われない自由を「homeport」で自覚的に取り組んでいることの一つの現れだと言い切れます。

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