見出し画像

歴史を学ぶということ

片付けをしていたら昔もらって、いつか記入しようと思っていた「旅立ちの準備ノート」が出てきたました。トラベル・プランナーではなく、黄泉の旅プランナーです。第一部は自分の人生を振り返り、第二部はお葬式を計画するという構成。第二部には弔辞を読んでもらいたい人や、葬式の連絡係になってくれそうな友人の電話番号(!)の記入欄、会食や返礼品は豪華にするか質素にするか、墓を守るのはだれか(娘の場合はアテにならなとも書いてある!)などを書き込めます。

自分で遺影を選んだり、葬儀で流したい曲を書く欄もあって、このノートを貰った時は自分で自分の葬式を計画するなんて斬新という気がしたのですが今改めて見ると平成の文化遺産ですね。

私の娘は18か月から12歳までモンテッソーリ・スクールに通っていました。モンテッソーリの小学校では、知識は教えませんが、考察の作法を学びます。社会科では、まず人類の営みを考えて、その中で自分が興味を持ったことを時系列に縦軸で調べたり(歴史)、地理的に横軸で調べたりします。

人の死を弔うという行為は、いつの時代も、様々な地域で行われてきました。人はいつから葬儀を始めたのか、ピラミッドや古墳、など弔いの歴史を調べることも歴史の勉強です。未来の葬式はどうなるのだろう?

自分の国を中心とした為政者の歴史を丸暗記することは歴史の一部であって、それが歴史の勉強ではありません。新しい史実が発見されると歴史はどんどん書き換えられるので、気になったときに調べる習慣を持つことが一番大切だと思うのですよね。服飾史、武器の歴史、音楽史、食事の変遷、気候の変動、どれも歴史です。それぞれを紐解ければ為政者の歴史との接点もあります。

私は日本の2倍の広さのテキサス州の16世紀から始まる有史(先住民は文字がないから)を、図鑑のような大きな教科書で学びました。(日本のワイド版の辞書ではなく、レターサイズで6cmぐらい厚みがあるような日本では見かけない本)。日本ではB5サイズの薄い教科書で弥生時代から学びました。

私のbackboneには、「学校教育」のauthenticity (正当性) を疑うというのがあって、特に社会科系のカリキュラムの是非についてはいつも懐疑的です。
歴史という教科から学ぶべきことは何なのか。そのための教材は何が良いのか。と、いつも自問しています。

図工の授業の成果が絵を描くことだとしたら、歴史の授業の成果は授業で聞いた知識をテストで問うのではなくて、知らなかったことについて調べて考察を行う行為でよいと思うのですよね。

歴史愛好家はたくさんいて、無数の歴史本が出ています。歴史については、もっと自由に多面的に学べるように指導したらいいのにと思います。

「旅立ちの準備ノート」からこんなに話が飛躍するなんて。ノートは捨て。