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「日本競馬」と「サラブレッド」

 最終コーナーを回って、最後の直線。大歓声と共にあちこちで怒号と悲鳴が地鳴りのように鳴り響く。
コロナの影響で今では見ることのできなくなった景色。そんな環境下にもかかわらず、この国では「競馬」というものが「公営ギャンブル」という要素を抱えながら、多くの人を魅了し続けている。日本の競馬を運営している「日本中央競馬会(JRA)」は競馬のイメージアップを図るために松坂桃李や土屋太鳳といった超人気俳優たちを用いて大々的なCM、広告を打ち出しており、競馬場の来客数が増加していることからも、その効果は少なからず出ているのかもしれない。
 しかし、やはりまだ「日本の競馬」は「ギャンブル」という名のキングボンビーに憑りつかれたままなのだ。いくら前に進んでも振りほどくことは出来ていない。野球、サッカーなどといった「スポーツ」としては正直、認められていないと言わざるを得ない。日本の競馬は大衆にとっての「いちゲーム」に過ぎない認識なのだろう。
では、ギャンブルの要素を捨てればいいのかというとそれは非常に難しい。確かにドバイなどの中東での競馬は馬券発売を行っておらず、レースとしての機能しか果たしていない。だが日本はJRAが競馬を運営しており、そのJRAは馬券発売で得た莫大な収益の多くを税金として国に納めている。その額はなんと年間約3000億。この構造を打ち破るのは現実的ではない。
さらにもう一つ大きな問題がある。それは競馬というものは主役が「動物」であることだ。実は「競走馬(サラブレッド)」の多くが引退後は殺処分されているというメディアの報道もあって、動物愛護関連など各方面から批判を受けているという事実がある。このことを踏まえるなら、日本の競馬は「動物をギャンブルの道具として使い捨てている」と思われても仕方ない。なぜこうなってしまったのか。
そもそも「競馬」は16世紀にイギリスの貴族諸侯の娯楽として本格的に行われるようになったのが始まりとされている。人間は古来から人を戦わせたり、物を使って競争させることを娯楽として楽しんできたという歴史がある。そんな「競馬」という「娯楽」をより昇華させるきっかけとなったのが「賞金」である。レースで優勝すれば馬に乗っている騎手や馬主が大きな賞金を獲得できる。そうなると、人はより強く、速い馬が欲しいと思う。そこで生まれたのが「サラブレッド」だ。人間が種付けから操作し、強い馬を掛け合わせ、この世に送り出すのである。まさに「品種改良」というわけだ。
つまり、サラブレッドとは「人間によって作り出された、人間のための動物」なのである。人が存在しなければ、本来生まれてくるはずのない馬の中の一種の動物ということだ。こうして、血を絶やすことなく、時を経て、強い馬が貴族だけでなく、大衆をも魅了するようになった。今でも欧米では競馬場は一種の社交場として機能しており、観客は皆ドレスアップしてレースを見世物として楽しむ風習が根強い。
そして競馬が各地で定着してくると、人々はどの馬が勝つのかを予想するようになる。「賭け事」としての始まりである。そもそも人間の世界は「賭ける」という行為に満ちている。傘を持っていくか、バスにするか電車にするか、ささいな違いが重大な結果をもたらす。結婚などは人生最大の賭けだと思っている。そこに「金銭」を賭けるとなると印象は悪くなる。賭博行為は古代ローマでも流行していたように人間の性なのだろう。そういった金銭を用いた「賭博行為」は私的な身内間などでは当然のように行われていたが、競馬が大衆にも根強く定着してきたことで多くの人が賭けたい衝動に駆られる。そうするとその賭け事を仕切る者が現れるのも必然と言える。賭け場が作られ、大衆が賭博行為に及ぶようになった。このようにして「競馬」と「ギャンブル」はある種の共同体関係として成立するようになったのだ。
我々人間が競馬を賭け事として楽しんでいるのは間違いない。では、競馬の主役である「サラブレッド」が私たちに提供しているものは何なのか。彼らは私たち人間にとってどういう存在なのだろうか。サラブレッドというと、その鍛え抜かれた重厚な筋肉と美しいシルエットはまさに美術品だとまで評されることもあり、時速約60kmでターフを颯爽と駆け抜けていく姿に私たちは魅了されている。しかし、そもそも彼らは走りたくて走っているのだろうか。馬は本来、とても臆病で小心な動物であり、約350度の視界を用いることで、危険を察知する能力に優れている。馬の高い走力と心肺機能は肉食動物から身を守るために備わった能力なのである。つまり、馬は「速く走る動物」ではなく、「逃げる動物」なのだ。
そう考えると、サラブレッドは走りたくて走っているわけではないのかもしれない。だが、彼らには肉食動物のような敵はいない。敵は同じレースを走るサラブレッドである。彼らは生まれてから競走馬としてデビューするまで、レースに出れるよう、徹底的に人間によって鍛えられる。最も難しいのが騎乗馴致、人を乗せて走れるように訓練することだ。競馬はサラブレッドだけでは成立しない。彼らに跨る騎手と一心同体になって初めて「競走馬」になれるのである。
そんなサラブレッドを競走馬にするために支える人達が牧場の生産者や育成者、調教師、厩務員などといった「ホースマン」だ。ホースマンたちにとってサラブレッドの存在は自分たちの生きる術でもある。競馬というものがなければ彼らは毎日の生活を送ることができない。だからこそ、彼らはサラブレッドに対して愛情を持って接する。時には鞭で叩いたり、動物虐待ではと思わせるような行為もないとは言えない。だが、サラブレッドもまた、こういったホースマンがいないと毎日の生活を安心して送ることは出来ないはずだ。この競馬という世界に足を踏み入れ、飯を食っていくことを選んだ人達に共通しているのは競馬が、サラブレッドが大好きなのである。子供の時、学生の時、みな名馬たちの走りに魅了され、この道を選んだ人達なのだ。また馬主と言うと儲かるとか金のイメージが強いが、彼らの中には1頭のサラブレッドに対して何億という価値を支払う人もいる。正直言うと、馬主はまず儲からない。彼らは夢を買っているのだ。馬主も同様に競馬が大好きなのである。
競馬というものは「ギャンブル」、「動物愛護」といった批判性という側面を持ちながらも、多くのホースマン、競馬ファンたちに夢を与えているという事実は変わりない。世界を例に見ると、オーストラリアでは毎年行われるメルボルンカップが開催されるレース当日は開催地のヴィクトリア州の祝日に指定されており、国の一大行事として認識されている。しかし、日本では「有馬記念」のように競馬の知名度は高いものの、これまで述べてきたホースマンたちの存在やサラブレッドの魅力といった競馬の本質よりも「ギャンブル」という側面性が強く認識されており、競馬自体にある意味「スポーツ」としての魅力を感じる人達はごく一部である。これには様々な要因があるとは思うが、やはり最も伝えていかねばならないことは「競馬」とは「ホースマン」と「サラブレッド」による創作活動であるということなのだろう。どちらが欠けても成立しない、「人間の人間とサラブレッドによる人間のための競馬」。私たちが紡いでいかねばならない真実がここにある。



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