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逃れることのできないもの。

 2020年9月、大手IT企業を退職した僕は自分の趣味を仕事にすることにしてみた。僕の今の仕事は「馬を売る」ことである。馬というのはポニーなどのペットとか乗馬ではなく、僕の趣味である「競馬」の主人公サラブレッド(競走馬)だ。では自分がサラブレッドを所有して売っているのかというと、そうではなく、北海道の牧場で生産されたサラブレッドをECの形態で購買者である馬主に販売するという仲介をしている。牧場としては馬は商品であり、それが高値で売れて、尚且つ競馬で結果を出してくれることが重要だ。(競馬で生産馬が勝つと賞金が入る仕組みがある)対して、馬主はとにかく走る、結果を出す馬を買いたいのである。ということは「走る馬」を売れば良いのだと思った僕はこの競馬界に数十年、自分の生業として毎日を生きる、いわばプロフェッショナルの人達(生産者、馬を管理する調教師、騎手)に直球を投げた。「走る馬って何ですか?」僕はこの球を必ず綺麗に打ち返してくれるだろうと自信満々に投げた。しかし、その球は思いもよらない方向に返ってきた。「わかんないね。」何人に聞いても、同じ答えだった。もちろん参考例として過去に走った馬の特徴など色々教えてくれたのだが、それを整理した結果、結論「走る馬はわからない。」というのが答えだったのである。僕は愕然とした。普通の世界、例えばスポーツやビジネスの世界なら何かしらの正解やコツがあるはずである。だが、この競馬の世界には正解がないようだ。そしてそこから僕の途方もない「走る馬」を探す旅が始まったのである。


 サラブレッドは年間約7000頭が生産される。その中から早くても2歳の夏(人間で言うと中学生)に競馬場でデビューし、3歳~5歳くらい(人間でいう高校生~20、30代)まで競馬で走る。基本的に僕が売る馬というのは当歳、1歳馬という子供が対象である。つまり、人間に例えるなら赤ちゃん~小学生の歩いている姿や駆け回っている姿を見て、誰が一番高校生になった時に速く走れるかを見極めることが命題である。客観的に考えて無謀としか言いようがないと、この文章を書きながら、改めて気づいた。


 では走る馬を見極める前に考えなければならないことがある。競馬のコースには2種類あり、一つが芝の上を走る、私たちがよく目にする競馬のコースである芝コース。二つ目が砂の上を走るダートコースである。稀に両方のコースで走る強い馬もいるが、基本的にはこの2つのどちらに適正があるかを見極める必要がある。そのコース適正を見極める判断材料でもあり、良質なサラブレッドであるかを見極めるための大きな評価基準が二つある。一つ目は血統だ。競馬はブラッドスポーツといわれるように、今日のサラブレッドたちの血統を辿っていくと、3頭の始祖と言われるサラブレッドに辿り着く。そこから血が受け継がれて、現役時代に優秀な成績を残した選ばれしサラブレッドのみが種牡馬としてさらに血を受け継ぐ権利を得ることができる。なので多くのサラブレッドの父親は基本的にはバリバリ活躍した馬なので、血統が良い。だが母馬は現役時代に成績が良くなくても、多くのサラブレッドが母として子を産む。ということは母が現役時代にバリバリ成績を残した馬の子供が走るのではと思うが、意外にもそうではないことが多い。母は1勝もできなかったが、母の兄がG1などの大きなレースを勝っているような血統の馬が活躍するといったことがあるのである。とはいえ、やはり血統の良い馬(母が活躍した、兄姉が活躍している)というのは高値で取引され、走る可能性が高いと言われている。だがそう言われているだけで、市場で数億円で取引された馬でも1勝もすることが出来ずに競走生活を終える馬も少なくはないのだ。


 二つ目は馬体だ。パッと見ではよくわからないだろうが、人間と同じように、サラブレッドというのは兄弟であっても1頭1頭じっくり見てみるとバランス、大きさ、足の形など全く異なる。この馬の体のつくりが走る馬を選ぶ重要なポイントである。血統がそこまで良くなくても、バランスが良かったり、筋肉の質が良かったり、全身を使ったなめらかな動きが出来ていたり、顔つきが良かったりといった魅力がある馬は走る可能性が高いと言われている。だが、こういった馬体が誰が見ても惚れ惚れするような馬であっても、精神的な問題があったり、体質が弱かったりなどが理由で結果を出せない馬も多いのである。


 つまり、これら二つの要因はあくまで走る確率が高い要因であって、必ずしも血統、馬体が良い馬が走るわけではない。サラブレッドの血統評論家や馬体評論家と言われる人達がこの業界には多数いるのだが、そういった人達がおすすめする馬はむしろ走らないことの方が多いとさえ感じる。雲の中を突き進んでいるような世界である。これを踏まえて冷静に考えた時に「なぜそんな可能性の低いことに趣味とはいえ、馬主は大金を落とせるのかわからないなあ。」とふと感じた。


 サラブレッドはとにかく金がかかる。1頭当たり平均価格はピンキリだが、1000万ほどである。さらにそこから、デビューさせるまでの預託料が毎月約30万。デビューしてからは毎月約60万の預託料なので途方もない額の出費である。それを実現させているのが馬主だ。これだけの費用を出せるということはいわば人生の成功者である。自分の仕事で成功を収めてきた、正解を出してきた人達。馬が好き、競馬が好き。自分の趣味としてサラブレッドを購入し、大きなレースを勝つ夢を追い求めている。だからこそ、お客さんとして攻略するには最高レベルの難易度である。馬主たちはいつそんな勉強する時間があるんだというほど、血統や馬体に詳しく、単なる競馬ファンなんていうレベルではない。最強の競馬オタクと言えるだろう。まして厄介なのが、一人一人の好みがバラバラすぎてニーズはまさしく千差万別である。そんなとんでもない人達がいわゆる僕のお客さんなのだが、共通しているのは皆、自分の馬が全然勝てなくて大損しても楽しそうに話してくれる。次はこういう馬を狙わないとなと。競馬は正解がわからない。とある馬主は「なかなか自分の馬で勝つことは難しい、馬主活動は修行だよ。」と言っていた。これまで自分の人生で正解を出してきたからこそ、この正解のない道を突き進むことに心を動かされるのかもしれない。彼らは死ぬまで走る馬を探し続けている。僕は確信した。「この人達は本物のバカだ。この人達を相手にするには自分も本物のバカになる必要がある。」東証一部上場企業の会長、社長、弁護士、医者。そんな人達に向かって面と言える言葉ではないと思われるかもしれないが、これだけは間違いない。競馬はこの馬主がいないと成り立たない世界である。生産者も調教師も騎手も全ての競馬に携わる人達は馬主がいて、毎日を生きている。「わかんないね。」いつかあの日言われたこの言葉を自分が変える日はやってくるのだろうか。僕は気づかないうちに走る馬の「答え」を求め続ける逃れられない永遠の呪いという「専門性」を身に着けていたのだった。

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