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漫画原作者・宮崎信二さんインタビュー Vol.2 〜欠落を埋める1ピースを見つける作業、それが描くということ。〜

──宮崎さんは昔からギャンブルはされていなかったんですか?

宮崎 昔はやりました。一番やっていたのは、北野英明さんの原稿取りをしていたときですね。北野さんは虫プロ出身で、「どろろ」というアニメの作画監督をしていた方。当時、北野さんが阿佐田哲也の『麻雀放浪記』を漫画化してヒットしたんですよ。それで麻雀劇画というジャンルが確立した。そのときに僕も麻雀漫画の編集者をやっていたんです。各社の編集者が北野さんの仕事場に集まって原稿を待つ間、やることがないから麻雀をやるんです。麻雀、トランプ、花札。いや、えらい巻上げられました。

──(笑)他の編集者さんがとても強かったとか。

宮崎 いや、僕が弱かった(笑)。僕がこの世界に入ったころだから、30年ぐらい前ですね。竹書房の編集者だったんです。そこから徳間書店、ワニブックス、エニックスと、17年ぐらい編集畑を渡り歩きました。何冊か創刊誌も出しましたし、いまだにお付き合いのある漫画家さんもいます。

──漫画自体は子どものころからお好きでしたか?

宮崎 好きでしたね。小学生のときは漫画家になりたかったくらいで。西武池袋線の椎名町に住んでいて、落合電話局のそばにあったダイヤ書房という貸本屋に毎日のように通っていたんです。「あそこの家のコはよく交通事故に遭わないね」と言われるぐらい(笑)、行きも帰りも読みながら歩いてました。

──私もやりました。家まで待てないんですよね(笑)。

宮崎 そう。そこがトキワ荘のすぐそばで、もちろん伝説の先生方はもういらっしゃいませんでしたけど、たまにぶらっと現れるみたいでね。貸本屋のオバチャンが「いま、手塚先生が来てたわよ」なんて言うくらいの環境だったんです。生活の中に漫画の世界が組み込まれていたというか。

──そのころの子どもにとって、自分で単行本を買うのは贅沢なことだったんですか?

宮崎 そのころは単行本って出ていなかったんですよ。

──そうなんですか⁈

宮崎 昔は販売用の漫画の単行本というのはほとんどなくて、僕らが読んでいたのは貸本屋用の単行本だったんです。小学館が『ゴールデンコミックス』というのを出して、秋田書店が『サンデーコミックス』かな。一部販売用の単行本も出版されていましたが、『少年サンデー』『少年マガジン』が創刊され貸本屋がなくなるまでは、子どもが漫画を手に入れる手段は貸本屋だけでした。

──当時、いくらぐらいで何日ほど貸してもらえたのですか?

宮崎 5円とか10円とか、それぐらいの単位だったのを覚えてますね。僕は優秀な借り手で(笑)、あっという間に読んで、翌日に返していたんですよ。しかも、本を汚すのは嫌いだから、汚さずに返す。そうすると、オバチャンが優先的に貸してくれる。「あの本ないのかな?」と思うと、「とっておいたよ」って出してくれるんです。

──そのころ好きだったのは作家はどなたですか。

宮崎 一番好きだったのが、「山本まさはる・シリーズ」の山本まさはるさんです。とても器用な人で、たとえば元気な田舎の少年の日常を綴る『ガン太郎日記』を描いたかと思うと、野球漫画や探偵モノを描いたりとか。それでいて絵柄がとてもシャレていたんですよ。泥臭くない。そのころの貸本漫画は、さいとう・たかをさんに代表される劇画が主流で、シャレてはいるんだけど、どこか土臭いっていうか、日本人独特の匂いがあった。でも山本さんはそこから外れていて、田舎の少年を描いてもどこかシャレている。描いている内容も、ネームも、絵も。品がいいんです。その人が一番好きでしたね。のちに山本さんと会うことができて、想いを伝えたことがあります。

──ご自分が編集者になってから?

宮崎 そうです。かわぐちかいじさんの忘年会でした。かわぐちさんは「モンスターズ」という野球チームをつくっていて、山本さんはそのメンバーだったんです。

──自分が小学生時代に胸をときめかせた憧れの人と会うのはさぞかし感慨深かったでしょうね。

宮崎 そうですね。でも、編集者になって、実際に作家に会って、感動を思い切り踏みにじられたこともありますよ(笑)。

──(笑)。

宮崎 まあ、こちらが勝手に幻想を持っているからいけないんですけどね。

──漫画家に、その作人の主人公を投影してしまうのでしょうか。

宮崎 ああ、そうかもしれません。あと、描いている方向性で勝手にその漫画家もそういう人なんだろうと決め付けてしまうのかも。ハートウォーミングな物語を描いている漫画家が、実際にはすごい非人道的な人だったりとかしますからね(笑)。でも、それはしょうがないんだ、作家というのは欠けている人なんだと思うようになった。シェル・シルヴァスタインの『ぼくを探しに』という絵本があるでしょう。あれは最後にピタッとはまるピースを見つけるわけですが、一生そのピースが見つからない人のことを「作家」というんだと。見つける努力をする過程が、作品を描くという作業なんだろうなと思ったんです。ハートウォーミングな作品を描く人は、ハートウォーミングになりたいと思っている人、なのかもしれないですね。

──漫画家や小説家にかぎらず、クリエイティブな人というのはそういう欠落があってこそなのかもしれないですね。

宮崎 ええ、ひどい人にかぎって、いいものを描きますね(笑)。まともな人で作品も素晴らしいというのは珍しい。すべての人がそうだとは言いませんが、何かひとつのジャンルを極めた人、ひとつの才能に突出した人というのは、どこかそういうところが見受けられます。だから、僕は原作者だけど、作品が甘いと言われたら、「すみません、幸せに育ったものですから」と言うことにしているんです(笑)。

──他に好きだった漫画家、影響を受けた漫画家はいますか?

宮崎 僕はまるっきり手塚(治虫)世代ですね。小学校低学年のころから『鉄腕アトム』をリアルタイムで読んでいました。ただ、手塚さんの評価って年齢ごとに変わるんですよ。小学生のころはただ単に面白かったものが、中学生になると、他の漫画家の作品にも手を出して、手塚漫画がアナクロに見えたり、ヒューマニズムと言われるものが逆に残酷なものに感じて、アンハッピーエンドばかりで厭だなと思ったりね。人間に対する姿勢が冷たいんじゃないか、と感じる時期もあった。でも、それを乗り越えると再評価する。手塚さんは別格ですよ。手塚漫画というのは生活の一部というか、当たり前のように身体に染みこんでいて、いまの自分から切り離すこともなかなか大変。生まれたときからあった空気みたいなもんですから、もういい悪いの世界ではないですね。

──私も小学生時代、父がある日『鉄腕アトム』、『火の鳥』シリーズ、『ドンドラキュラ』、『リボンの騎士』など、手塚さんの漫画をごっそり買ってきてくれて、読みふけりました。父にとって手塚治虫が漫画家の最高峰だったんだと思います。

宮崎 その中で一番面白かったのはなんですか?

──その中には入っていなかったけれど、『ブラックジャック』と『三つ目がとおる』が好きですね。

宮崎 僕が忘れられないのは「最後は君だ!」という短篇。『少年サンデー』の読み切りでした。ある南の島に、A国、B国の軍隊が上陸してくる話です。当時は東西冷戦真っ只中だから、それはアメリカとソ連であり、架空の島は日本ですね。その南の島がA国に占領され、村人が拘束されるんです。対岸の港のほうにはB国の基地がある。そこで組織された子どもたちが山を越えて対岸に行って助けを求めようとするのですが、その間にいろんなことが起きる。それこそ脱落してしまったり、いま投降すれば助けてやるといわれて仲間を売ったりとかね。そうすると、自分の友だちだと思っていた人が一人減り二人減り、とても意志が強い主人公も仲間を切り捨てていくわけです。そしてやっと対岸に着くと、A国とB国の間で和平が成立している。皆は「よかった」と言うんですけど、主人公はすべてを失ったわけですから、ちっともよい結末じゃない。これはショックでした。20ページとか24ページとかそんな短いページで、こんなに内容の深いドラマを描けるんだ、と感動しました。

──読んだとき、お幾つだったのですか?

宮崎 中学か高校ですね。

──手塚さんの作品だけでなく、漫画というものが自分の考え方に影響を与えたというのはありましたか?

宮崎 かなり雑多に読んでいるので、誰のどの作品が、というのはないのですが、一番多感な高校時代に影響を受けたのは、『ヤングコミック』という雑誌と萩尾望都さんですね。彼女のデビューは強烈でした。そのころ、ダイヤ書房がなくなって、実家の近所に新しい貸本屋さんとして山吹文庫さんが引っ越してくるんです。のちに「現代マンガ図書館」を創設された内記稔夫さんがご主人で、今度はそこに毎日通うようになった。内記さんは早稲田の鶴巻町で営んでいる不動産屋さんと掛け持ちでやっているので、普段は奥さんが店番をしていて、その奥さんからいろんなものを勧められたんです。『子連れ狼』とかもそれでハマった。そのときに『ポーの一族』を勧められました。それまでは少年漫画しか読んでなかったんだけど、「これは少年漫画、少女漫画というジャンルの問題じゃないから読んでみて」と。読んでみたらすごかった。漫画を読んでいるという感覚がなかった。漫画はここまで行けるのか、と感動しました。それと平行して、少年漫画に食いたらなくなって、『ヤングコミック』というラジカルで反体制的な漫画も読むようになった。上村一夫さん、かわぐちかいじさん、真崎守さん、宮谷一彦さん、当代一流の作家たちが勢ぞろいという漫画雑誌で、一発で感化されました。それが数年続きました。

──高校から大学くらいまで?

宮崎 そうですね。のちに青年誌の編集者になろうと思うきっかけはこの『ヤングコミック』の洗礼が大きい。少年誌ではできないことが青年誌ではこんなにできるんだということを実感したんです。

──月刊誌だったのですか?

宮崎 隔週誌です。上村さんが表紙を描いて、オシャレなんですが、中身が過激でした。

──いまは過激な雑誌がないですよね。

宮崎 ないですね。たぶんいまつくっても売れないでしょう。読者が求めなくなっているだろうし。その過激さというのもひとつのブームだったと思います。当時はモノを考えるのが流行りだったんですよ。タモリがうじうじ考えるヤツらのことを「ネクラ」と評しましたが、われわれの若いころというのはつまらないことでも論じ合うというのが流行っていたんです。団塊の世代である兄たちが何をやるのか爪先立ちをして見て、一時は追いつこうとしてムリをした。そういう経験は血肉になっていると思います。

*第1回はこちらからどうぞ↓




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