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誕生前夜。

昨夜、寝る寸前に、写真家のMOTOKOさんの投稿を読んだ。

京都、くるり、スピードスター、観光、日常、非日常、価値……などについて、非常に手触りのある、時間と風景とが立体的に屹立してくるとっても素敵な文章で綴られており、2年半前に京都に移り住み、3カ月前に小さな店を始めた自分の心にすうっと染み入った。

途中で書かれていたくるりの「その線は水平線」をApple Musicでかけ、引用されていた岸田さんのnoteの投稿も読んだ。

「デモ音源を聴いた映画監督の是枝裕和さん(当時「奇跡」の劇伴を製作していた)が、この曲を主題歌にしたい、と言ってくれた」と、初めて知った。

もうひとつ。MOTOKOさんの文章の冒頭に「実は、私がキャリアをスタートした90年代半ば、最初に関わったレコード会社がスピードスターで、初めて撮影したアーティストが UAさんでした。」とあるけれど、MOTOKOさんと初めて仕事をしたのは、まさにそのUAだった。

以下は私の思い出話です。

   ***

私が雑誌『SWITCH』で、初めてドキュメントスタイル(地の文とカギカッコ)で巻頭特集を書いたのは、UAだった。

掲載は1997年3月号。私は誕生日を迎える寸前の25歳で、編集者になって2年ちょっと。UAは私のひとつ下なので24歳。ご自宅に伺い、彼女のいれてくれた紅茶をいただきながら、2時間ほど話を聞いた。シングルのリリースのために沖縄に撮影に行くというので、それも同行した。当時、彼女は妊娠していて(村上虹郎くんがお腹にいた)、ロケバスで辛そうにしていた彼女の腰をマッサージしたことがある。「ホリさん、いつもついてくれてる看護師さんよりぜんぜんうまい」と言われ、嬉しかった。

この取材についてはいろいろあった。まず、企画を立てたのは、のちに副編集長まで務め上げた川口美保さん。アルバイトから社員になり、営業として日々奔走し、レコード会社のタイアップを見事にとって、自分が好きなUAの巻頭特集企画を立てた。もちろん本人は取材して執筆する気だった。SWITCHは営業もそういうことができるユニークな編集部だ。ただ、編集長の新井敏記さんが「川口には巻頭特集の取材はまだ早い」と判断し、私にやりなさいと命じた。手柄の横取りみたいな感じで申し訳なかったけれど、唯一できることはいい原稿を書いて、川口さんにも納得してもらうことだと腹を括った。

かくして原稿用紙24枚ほどの原稿を書きあげた。後日、新井さんから聞いたのだが、その原稿を読んだ沢木耕太郎さんから「新井くんが独立して23歳のアルバイトを編集者にして育てると言ったときは、本当に大丈夫かなと思ったけれど、よくここまで育てたね」と言われたそうだ。そしてこの原稿を読んだ、のちの小川糸さんから、「沈黙の花のようだった。」という言葉がとても素敵だった、という手紙をいただいた。(詳細は以下のブログにあります。)

さて、MOTOKOさんだ。

タイアップが決まったときの条件に「カメラマンはMOTOKOさんで」というのがあった。なにしろ企画の目玉のひとつは「妊娠中の彼女のセミヌードを撮影する」で、UA自身が絶大な信頼を寄せている彼女を指名したのだ。スタジオでの撮影のことはほとんど覚えていないが(たぶんドキドキしすぎていた)、できあがったプリントを見て、撮影される側と撮影する側の信頼感というのは必須だなあ、とあらためて感じた。素敵な写真だった。

しかし、ひとつ問題が起きた。MOTOKOさんがレタッチ代を別途請求してきたのだ。それまで仕事をしてきたカメラマンは自分でレタッチをしていたから、レタッチャーという専門の職人にレタッチを依頼するカメラマンがいることを私は初めて知った。レタッチ代をカメラマンのギャラ以外に支払うと、ページ単価から大幅に超過してしまう。私はSWITCH編集部しか知らず、井の中の蛙状態だったので、「いい仕事だったのに最後に裏切られた」という気持ちになってしまい、新井さんに相談し、結局「レタッチ代は支払いません」と返事をした。つまり、MOTOKOさんは自腹を切ったことになる。ギャラのほとんどはなくなったと思う。

MOTOKOさんとはこの仕事が最初で最後になった。そしてその後味の悪さは心の底に沈澱していたようで、特にSWITCHをやめてフリーライターになってから──つまりMOTOKOさんと同じフリーランスになってから、あのときの自分の不遜さを思い出すようになった。せめて折半するとか、方法があったはずなのに、と。

それから数年が経ち、2012年3月、MOTOKOさんから個展の案内状が来た。会場に向かうと、本人が在廊しており、写真をゆっくり見てから、声をかけた。直接会うのは1997年以来。私は写真の感想を伝え、あのときの私を許してもらうためだけに、レタッチ代の話をした。MOTOKOさんは「えー、そんなのずっと気にしてたの?」と笑い飛ばしてくれた。

そういえば、と思い出す。2000年6月末にSWITCHをやめたとき、私は退社挨拶の葉書を200枚つくって、お世話になった方々に送った。伝えるためだけに送ったものだったので返事などは期待していなかったのが、5人からすぐに連絡があった。そのうちのひとりはスピードスターに在籍してCoccoのディレクターをしていた”テーラー”こと寺田正治さん。そしてもうひとりはMOTOKOさんだった。葉書に自宅の電話を記していたので、電話をくれたのだ。「これからフリーになるの?」とか「ロンドンに行くなら知っているところを紹介するよ」とか「落ち着いたらご飯でもしよう」とかそんなことを言ってもらった気がする。

そしてなにより、UAの特集号の総タイトル「誕生前夜」は、MOTOKOさんが考えたものだった。沖縄の撮影中だったか、それとも一緒にプリントのアラ選びをしていたときだったか、彼女が口にしたその言葉を、私はそのままタイトルにした。にわか取材者(私)には考えつかない言葉であり、まさにMOTOKOさんがUAを何回か撮影しながら、その成長に触れて感じたであろう言葉。誕生前夜。そうだ、私もあのとき初めて20枚越えの原稿を書いて、ようやく人並みのインタビューライターとして誕生したのだった。

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