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最上級の男。(2018年2月9日記)

両親は私が小学3年生のときに別居した。

母は泣く泣く弟だけを連れて東京に行き、私と妹は父の強い希望で金沢に残った。その後、父の恋人が家に出入りしたりして(詳細は「父の日。」 )、父の子育ては経済的にも体裁的にも破綻し、母は私と妹を引き取った。そして正式に離婚した。

最初に親子4人で住んだのは東村山・八坂町の2Kのアパートだった。

大学を出ていなかった母にはよい就職口がなく、簿記の勉強をして事務仕事に就いたが、子ども3人を仕送りなしに大学まで行かせるには無理があった。

母は事務を辞め、歌舞伎町のクラブに勤め始めた。33歳だった。17時に母の用意してくれた夕飯を4人そろって食べ、母は18時に家を出て、19時から23時まで働き、0時に帰ってきた。クラブは一般的に源氏名で呼ばれるが、そこはちょっと変わっていて、「ホリちゃん」のように名字にちゃん付けで呼ばれていた(詳細は「お水の花道──歌舞伎町編 第2回」)。

中学2年生の夏休みに妹と金沢に遊びに行ったら、父は再婚していた。

私はマンションの屋上で泣いた。1時間ほどで涙が(比喩でなく)枯れ果てると、「親の人生は親個別の人生であり、それを子がどうこうする権利はない。そして、子の人生も親がどうこうする権利はない」という想いにたどり着き、階下に降りて、父に「結婚おめでとう」と言うことができた。

金沢を出た夜行列車が朝、上野駅に着くと、母がホームで待っていた。家に向かう電車に並んで座り、「どうだった?」と尋ねる母に私は「お父さん、結婚してたよ」と言った。母は驚いた。父が結婚したのは数カ月も前のことなのに、しかも実の子が会いに行くというのに、父は母に何も伝えていなかったのだ。私は母の顔を見て、「お母さんも好きな人がいたら結婚していいよ」と言った。皮肉ではなく、心から。

でも、母は再婚しなかった。恋人はいたが、お店のお客さんで、結婚していた。

ときどき母は私たち子どもを歌舞伎町の「西洋割烹 車屋」に連れて行ってくれた。大人さながらコース料理を食べ、母はそのまま店へ向かい、私たちは新宿ヒルトンホテルへ向かって部屋で母の帰りを待った。年に2回ほどのそんなスペシャルデーは、実は母の恋人がお膳立てしてくれていたとあとで知った。母は一緒にテーブルを囲もうと誘ったらしいが、彼は「僕はいいよ。子どもと楽しんでおいで」といったそうだ(関連話は「お水の花道──歌舞伎町編 第3回」)。

恋人は母の勤める店に通うだけでなく、「子どもの学費、たいへんだろう」といって母にお金を貸した。でも借用書などは一切なく、その人もたぶん返してもらう気はなかったと思う。これも母が後年、「彼の貸してくれたお金を積み立てしたりして増やせたから、本当に助かった」といって知った話だ。

その人との付き合いがどれくらいの年月だったのだろうか知らぬが、母はいつの間にか彼と別れていた。その後、連絡を取らない月日が過ぎ、彼が妻を亡くしたことを知り、さらに数年後に彼自身が末期がんで入院したことを知った。母は彼の部下に連絡をとって、入院先を見舞った。部屋に入ってきた数年ぶりの母を見て、彼はこういったという。

「ああ……ホリちゃんには会いたくなかったなあ……」

痩せ衰えた姿を、昔愛した人に見て欲しくなかった、という意味だったのだろう。しかし、その言葉は重く、母は二度と見舞うことができなかった。後日、彼は逝った。

私たち子どもの学費の一部を支えてくれたその人は、母を愛し、大切にしてくれたその人は、鎌倉のどこかのお墓に眠っている。「いつか一緒に墓参りに行こうね」と母は言っていたのだが、結局そのお墓がどこなのか、母は誰にも尋ねなかったようだ。いまも知らないままだろう。

彼は一緒にレストランに行くと、ステーキでもオマールエビでもアワビでも、その真ん中を切り分けて、母の皿に「ここ美味しいよ」とおいてくれた。端っこならよくある。真ん中、というのがポイント。その話をする母は、本当に嬉しそうだった。子どもだった私にはすっかり、「メインの皿の真ん中を切り分けてくれる男こそ、大人の男だ! それが愛なんだ!」という刷り込みができてしまった。残念ながら、そんな人には一度もお目にかかれていないので、いまでも母の恋人が私にとって最上級の男である。

後記
これは「眞子様の婚約者・小室圭さんのお母様が、元婚約者から借りた400万円を返していない」という最初の報道を耳にしたときに書いたものです。


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