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お水の花道──歌舞伎町編 第8回

二番館では年末にクリスマスパーティが2日間開催され、ホステスは自分の担当するお客様にそのチケット──「パー券(パーティ券の略)」を購入してもらうのが慣しだった。

パー券には、ホステスへのキックバックがある。いくらか覚えていないけれど、当時パー券1枚が20,000円、キックバックの割合が1割だったとして、2,000円はホステスに入るわけだから、10枚でも20枚でもがんばって売ろうというモチベーションにはなっただろう。

中には十数枚購入し、社員を連れてきている社長もいた。そうやって贔屓のホステスを応援するわけだ。

中学1年生だったと思うが、その二番館のクリスマスパーティに私と妹(小5)と弟(小3)が呼ばれたことがあった。母の当時の恋人が母から購入したパー兼で招待してくれた。

子どもは複数人来ていたと思うが、私たちのような本当に小さい子は少なかった。妻や恋人らしき人を同伴している男性も数人いた。おいしい料理が並び、酒やタバコの匂いがあり、ビンゴ大会で盛り上がり、と、大人の社交場にいる自分にとても興奮していた。

1時間半も経ったか、司会の合図で店内の照明が落ちたかと思うと、入り口にスポットライトがあたり、ショーが始まった。

それはストリップだった。

薄い布のような衣装をまとった女性が、妖しげな踊りを披露しながら、店内をぐるりと回って一枚一枚脱いでいく。口笛と歓声、ドッと弾けるような笑い声。びっくりして声も出なかった。

1人目は日本人で、2人目は外国人だった。さっさと胸をはだけ、お客様の膝に座って、場をわかせた。女性の布と素肌の間に細く折ったお札を忍び込ませるお客様も何人かいた。

だが、ラストの女性は違った。彼女はシルクハットと蝶ネクタイ、下半身はアミタイツという出で立ちで、手に持ったステッキを華麗に操りながら、テーブル席の合間を進んだ。そして本当にここぞというタイミングで一つずつ衣装をはぎとっては後方に投げる。曲の終わり際に店の入り口に立った彼女が、最後の一枚を脱いだ瞬間、場内は暗転。破れんばかりの拍手が起きた。

なるほど、ダンスが下手な人ほど男性の膝に座ったり触らせたりしてごまかしているんだ。ラストの女性は自分の踊りにプライドがあって、カッコよかった。子ども心にそんなことを感じていた。

ストリップを見たのは、これが初めてではなかった。

小学5年生の夏休み、伯母(母の姉)の住む名古屋に遊びに行ったときのことだ。伯母と母と妹(小3)と私の4人で、ストリップを見に行った。

ビルの4階のエレベーターの扉が開くと、目の前にカウンターがあった。私たちを見たカウンターの向こう側の男性は、当然ながら、何かの間違いじゃないかというような驚いた顔をしていた。 伯母はそこでこう言った。

「見てのとおり、子どもが2人いるんだけど、半額にしてくれない?」

小屋は暗くて、ショーは始まっていて、かぶりつきの席に座った男性のハゲ頭にきらきらとミラーボールの光が反射していたのを覚えている。

──という話を15年くらい前にmixiにつづったところ、妹から以下のメッセージが届いた。

「裸の女の人が踊っているのを見たのって名古屋だっけ? そして、ストリップというのは舞台で脱いでいく過程を見せるショーだから、あれは正確にはストリップではないのでは……。なんだろう、トップレス・ダンスショーかな?」

驚いて母に詳細を尋ねると、妹の記憶のほうが正しく、私たちが行ったのは東京・有楽町にあった「日劇ミュージックホール」だった。日劇ミュージックホールは1981年2月に閉鎖されている。伯母は「閉鎖される前に見に行こう」と母を誘ったそうだ。

wikipediaにはこうある。

──1952年、東京・有楽町の日劇ビル内、日劇小劇場を新装し、ビルの4・5階に日劇ミュージックホールがオープン。日劇ビルは、演芸劇場・ストリップ劇場・映画館等が混在する複合施設で、当時は東京の名所として、はとバスの観光コースにも入っていた。日劇ミュージックホールは「大人が楽しめ、女性が見てもいやらしくない芸術的エロチシズム」というスローガンの元 “ヌードの殿堂”として人気を博す。ダンサーでは、小浜奈々子・舞悦子・朱雀さぎりの三人娘や伊吹まり・メリー松原・岬マコ・星ひとみなど多くのスターを輩出した。また、コメディや演劇も数多く上演。初期は、三島由紀夫から寄稿された脚本が上演されたり、トニー谷や関敬六などもコントで活躍。カルーセル麻紀や岡田真澄もこの劇場からデビューを果たす。このように、大衆文化・娯楽の中心として浅草フランス座と並び人気を博していたが1981年2月、惜しまれつつ日本劇場が閉鎖。日劇ミュージックホールも1984年3月24日にその幕を閉じた。なお、独特の円筒形をした日劇ビルの形状は跡地に作られた、現在の有楽町マリオンに引き継がれている。──

エレベーターがあったのも、目的の階が「4階」だったのも、ミラーボールがあったのも正解だったが、「東京・有楽町」が「名古屋」になった理由は、やはりその名古屋に住む伯母の台詞(「子どもを半額にして」)があまりにも強烈だったからだろう。

この勘違いの顛末を読んだ友人が

「記憶というのは面白いことをするもので、思い出が過去そのものだったためしなどきっとなかったのでしょう。思い出は選択され増幅され時に脚色された記憶の集積 」

というコメントを残してくれたのだが、本当に記憶というのは肝心なところはあやふやで、心に強く残っているのは「思い出」という名の感覚(映像、匂い、音など)のみなのだ、と考えていたほうがいいのかもしれない。

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