【カトリックアニメ信仰】
イマーゴ信仰(オマージュ信仰)が受肉した名シーン
「守護聖人」はホワイトマジシャンの白魔女、「死のカルト教団」はブラックマジシャンの黒魔女
副題 ヲタク芸術は「死のカルト教団」だった
「コミックマーケット」と「庵野秀明」
コミックマーケットは同人誌の即売会でありコアなファンのためにあるらしい。
そういった同人誌は2次創作と言われている。
ではそのような2次創作とは「芸術愛のパン(イエス・キリスト)」であろうか?
それともそのような2次創作とはコンフィデンスマン(倒錯性の支配)であろうか?
これは重要な問題である。
「芸術愛のパン(イエス・キリスト)」を「倒錯対象」としたコンフィデンスマン(倒錯性の支配)であるならコミックマーケットの参加者はコアなファンと言うことはできない。
要は「芸術愛のパン(イエス・キリスト)」への殉教者(確信性の確保)であり得るだろう創作をするなら「芸術の成立」となり得るのです。
又、そういった作品制作は芸術家自身の殉教者(確信性の確保)の存在を示し、それらはその芸術家のオマージュ(後継者)とされる資格を持ちうるだろう。
一方で「芸術愛のパン(イエス・キリスト)」を「倒錯対象」としたコンフィデンスマン(倒錯性の支配)を制作したならば、そういった作品制作はその芸術家を冒涜するだけで、その芸術家にとって最高悪と見做されるだろう。
では「創作」について考えてみたい。
「創作」を「倒錯対象」としたコンフィデンスマン(倒錯性の支配)
ここで言える「創作」とは「芸術愛のパン(イエス・キリスト)」への殉教者(確信性の確保)であり得るだろう創作活動であって、それは「芸術の成立」とされる。
一方で「芸術愛のパン(イエス・キリスト)」を「倒錯対象」としたコンフィデンスマン(倒錯性の支配)に創作活動はなく、ただ冒涜行為を最高悪崇拝として正当化していくだけであった。
要はこう見ていくとコミックマーケットの参加者とはコアなファンではなく最高悪崇拝者であるのです。
そういった最高悪崇拝とは「悪」の絶対肯定として表出する。
そのあり方は「愛されキャラ(終末論)」にある。
例えば「風の谷のナウシカ」を「倒錯対象」として「愛されキャラ(終末論)」を制作する。
私はナウシカを愛している。
そういう意味でナウシカとは「愛されキャラ(黙示録)」であった。
何故「風の谷ナウシカ」が「黙示録」であるかを説明すれば「善」を救済する「聖書」の存在であったからです。
そしてナウシカとはメシアであった。
メシア・ナウシカの実存する世界とは「ユートピア」であった。
一方で「愛されキャラ(終末論)」とは「愛されキャラ(黙示録)」を「倒錯対象」としたコンフィデンスマン(倒錯性の支配)としてあった。
それは「善」を「倒錯対象」とした「悪」を崇拝する「愛されキャラ(終末論)」の制作であった。
「風の谷のナウシカ」の「善政」を「倒錯対象」とした「悪政」の支配となっていく。
それが聖宮崎駿監督と庵野秀明監督の関係だった。
当然の如く聖宮崎駿監督は「愛されキャラ(黙示録)」を創作した。
それは「聖書」だった。
「風の谷のナウシカ」が有名です。
一方で庵野秀明監督は「愛されキャラ(終末論)」を制作した。
それは「聖書」を「倒錯対象」としたコンフィデンスマン(倒錯性の支配)だった。
「新世紀エヴァンゲリオン」が有名です。
結局は聖宮崎駿監督の創作活動だけが本物であり、庵野秀明監督は「そういった創作活動と聖書」を「倒錯対象」とするコンフィデンスマン(倒錯性の支配)でしかなかった。
庵野秀明監督の創作活動は偽物だったのです。
要は聖宮崎駿監督は創作者であって、庵野秀明監督は特殊詐欺師であった。
これはコミックマーケットの参加者にも言えます。
彼らはコアなファンではなかった。
彼らはコンフィデンスマン(倒錯性の支配)だった。
コアなファンとは?
ではコアなファンとは一体誰なのでしょうか?
「芸術愛のパン(イエス・キリスト)」を持つ稀有な人物を言うのです。
何故稀有かと言えば「芸術愛のパン(イエス・キリスト)」とコンフィデンスマン(倒錯性の支配)のスカトロジーを理解できる聡明な存在は滅多に居ないからです。
それは聖宮崎駿監督を例に取れば理解され易いと考えます。
例を挙げるとすれば「マニア」とは「聖アニメファン」の資質であったのです。
一方で「マニア」とは「ヲタク人」の習性でもあった。
この両者の「マニア」は全く別物であり「似て非なり」であったのです。
前者の「マニア」は「神的霊感」であったり「神の贈り物」としての「神的狂気」を言った。
これは「皇室」の「マニア」を示していて、「カトリックエレクト」の資質であったのです。
そしてこのように「皇室」とは殉教者(確信性の確保)を根拠として形成されたのです。
殉教者(確信性の確保)であり得るだろう「聖アニメファン」とは「高度な精神的姿勢ユーモア」なのです。
後者の「マニア」は「熱中する人」や「躁うつ病」を示していた。
これはコンフィデンスマン(倒錯性の支配)の習性であった。
コンフィデンスマン(倒錯性の支配)である「ヲタク人」とは「お下劣」なのです。
「高度な精神的姿勢ユーモア」のあり方は「ヒポクラテスの誓い」としてもとても有名です。
コンフィデンスマン(倒錯性の支配)を強制されることによって「心的外傷」を受け「PTSD」を発症することはフロイト精神分析のヒステリーと同じであるだろう。
このヒステリーは「聖アニメファン」に特有であり「ヲタク人」には発症しない。
「聖宮崎駿監督」と「多くのアニメ制作者」の違いが際立ってしまった。
それは聖宮崎駿監督の稀有な資質から来ている。
庵野秀明監督も「多くのアニメ制作者」の一人であった。
庵野秀明監督は聖宮崎駿監督に対してヲタク世代を標榜しコンフィデンスマン(倒錯性の支配)を主導した。
しかしそれはコンフィデンスマン(倒錯性の支配)の全肯定を目指した危険思想であった。
聖宮崎駿監督は「善」を救済する。
しかし庵野秀明監督は「善」を「倒錯対象」として「悪」を肯定し崇拝した。
この二人が気が合わないのは当然であった。
アニメ業界は狭い。
だからこの二人が露骨に喧嘩する訳にもいかない対人関係は想像されるだろう。
そういった聖宮崎駿監督を巡るヲタク人の包囲網が形成されている。
大阪芸大出身の庵野秀明には何故「芸術愛のパン(イエス・キリスト)」が理解できないのだろう?
では何故庵野秀明監督には「芸術愛のパン(イエス・キリスト)」がないのであろうか?
彼はヲタク世代を背負って立ち「ウルトラマンタロウ」を絶賛する。
しかしそれは「芸術愛のパン(イエス・キリスト)」を「倒錯対象」としたコンフィデンスマン(倒錯性の支配)でしかないだろう。
要は「芸術愛のパン(イエス・キリスト)」を持つか、「芸術愛のパン(イエス・キリスト)」を「倒錯対象」とするかによって全く違ってくる。
ヲタク世代は「芸術愛のパン(イエス・キリスト)」を理解できていないことが判明になって来る。
ヲタク世代は「芸術愛のパン(イエス・キリスト)」を「倒錯対象」とするコンフィデンスマン(倒錯性の支配)のスカトロジーを披露しているに過ぎない。
何故庵野秀明監督はこうまでヲタク人なのだろうか?
「芸術愛のパン(イエス・キリスト)」を理解しないヲタク人とは「芸術愛のパン(イエス・キリスト)」を「倒錯対象」とする。
そしてコンフィデンスマン(倒錯性の支配)を得意げに披露していく。
それは「芸術愛のパン(イエス・キリスト)」を目の敵にする「潰し屋(殺し屋)」を意味していた。
このような「永遠の命(神の恵み)」を「倒錯対象」とするコンフィデンスマン(倒錯性の支配)のスカトロジーとは「死のカルト教団」と言える。
これはどういったヲタク心理だろうか?
「芸術愛のパン(イエス・キリスト)」を理解できないヲタク人のゲスな趣味と言える。
又はヲタク人のゲスな危険思想だった。
庵野秀明監督を例に取ると分かり易い。
彼は幼少より芸術家へオマージュを持ちイマーゴとしてきたと語っている。
それは芸術家を夢見た純粋無垢な子供であったという主張であった。
庵野秀明監督は主にアニメ芸術や特撮芸術に興味の対象があったとされている。
しかし致命的な欠陥が庵野秀明監督にはあった。
彼には「芸術愛のパン(イエス・キリスト)」を理解することができなかったのです。
要は庵野秀明監督には「芸術的才能」が全く無かった。
庵野秀明監督が幼少より興味の対象としてきた「オマージュ(イマーゴ)」とは彼自身にとって理解不可能な「芸術愛のパン(イエス・キリスト)」を「倒錯対象」とするコンフィデンスマン(倒錯性の支配)のスカトロジーでしかなかった。
彼が幼少より持っていた興味とは「倒錯対象」へのコンフィデンスマン(倒錯性の支配)でしかなかった。
ハッキリ言って庵野秀明監督とはゲスな俗物であったのです。
庵野秀明監督とは完全に転倒したヲタク人でしかなく「芸術愛のパン(イエス・キリスト)」の素養が全く無かった。
このように「芸術愛のパン(イエス・キリスト)」への「潰し屋(殺し屋)」が彼の正体であった。
「芸術的才能」がない故に「芸術愛のパン(イエス・キリスト)」を「倒錯対象」とするコンフィデンスマン(倒錯性の支配)のスカトロジーを披露していく。
庵野秀明監督の自己顕示欲のあり方は「文化破壊」としてあったのです。
結局のところ彼の主張は終末論(末法思想)であり、まさに「文化破壊」を正当化する思想であった。
それは私利私欲のインチキ芸術家・・・私利私欲の特殊詐欺師・・・前衛芸術家・・・私利私欲の前衛詐欺師・・・私利私欲の最先端詐欺・・・私利私欲の特効薬詐欺・・・古典的詐欺の系譜です。
このような「アンチ・芸術」としての「死のカルト教団」とは庵野秀明監督の様に「芸術愛のパン(イエス・キリスト)」の素養が全く無い「劣等者の群(ブラックマジシャンの黒魔女)」によって形成される。
要はヲタク芸術家は芸術大学で学んでも「芸術愛のパン(イエス・キリスト)」を理解できなかった。
「芸術愛のパン(イエス・キリスト)」の素養とは「努力」ではなく殉教者(確信性の確保)だった。
庵野秀明監督は彼なりにやってみせたのかも知れない。
しかし彼は「芸術愛のパン(イエス・キリスト)」を理解できない。
そして「ヲタク芸術家」という虚飾を正当化していった。
庵野秀明監督とは「芸術家詐欺」であったのです。
自称芸術家なら誰でもなれるでしょう。
しかし「芸術愛のパン(イエス・キリスト)」を持たない「芸術家」はあり得ない。
私利私欲の為に他者を欺いていく詐欺師が絶対に「芸術家」とはなれない理由とは「芸術愛のパン(イエス・キリスト)」を持たないことで不誠実と不信用、軽薄短小さを肯定するコンフィデンスマン(倒錯性の支配)のスカトロジーにあります。
「芸術愛のパン(イエス・キリスト)」を「倒錯対象」として「私利私欲」を追求していく。
「芸術愛のパン(イエス・キリスト)」を「倒錯対象」とした「私利私欲」の追求は「終末論」となっていきます。
当然、「終末論」とは「デタラメ世界の全肯定」ということです。
「終末論」の世界観とは「芸術愛のパン(イエス・キリスト)」を「倒錯対象」とするコンフィデンスマン(倒錯性の支配)と「詐欺師(無根拠性)」にとって最も住み良い世界となるのです。
それが「ディストピア」です。
そういった中でどうしようもないマガイモノが制作されていく。
それが「芸術愛のパン(イエス・キリスト)」である筈はありません。
そのどうしようもないマガイモノとは「ヲタク芸術」です。
私利私欲の為に他者を欺いていく詐欺師が「芸術愛のパン(イエス・キリスト)」を持つことは絶対にあり得ない。
何故ならもし詐欺師が「芸術愛のパン(イエス・キリスト)」を持っていたなら私利私欲の為に他者を欺いていくことは絶対にできないからです。
「詐欺行為」と「芸術愛のパン(イエス・キリスト)」とは相反するのです。
一方で「文化芸術」を守護する「聖人(ホワイトマジシャンの白魔女)」がいる。
一般に守護聖人と呼ばれるだろう。
これはアニメだけではなく芸術一般に言える現象だろう。
庵野秀明監督は「大阪芸術大学出身グループ」である。
彼にしてみればそういった芸大出身とは自慢であるだろう。
私だってもし芸大出身であればそれだけでカッコが付くと感じるだろう。
女性にもモテそうだ。
しかし芸大出身という学歴だけで「芸術愛のパン(イエス・キリスト)」を創作できる訳ではない。
しかも彼には肝心要の「芸術愛のパン(イエス・キリスト)」を理解することができなかった。
そういった存在がヲタク芸術のゲスな趣味に走るのは理解し易い。
まさに画家を目指していたアドルフ・ヒットラーに似ている。
そういう意味でヲタク人のコンフィデンスマン(倒錯性の支配)とは「超危険思想」であった。
最善策を考える
こういった事態には早く手を打った方が善いだろうと思う。
ヲタク芸術のゲスな趣味はコンフィデンスマン(倒錯性の支配)でしかなく「芸術愛のパン(イエス・キリスト)」ではないことをハッキリさせるべきだ。
「終末論(末法思想)」により「デタラメ世界の全肯定」を謀るヲタク芸術に対して「ブラック・マジシャンの黒魔女狩り」が起こることは必然であった。
そういった役目は神が遣わしたメシアが担います。
コンフィデンスマン(倒錯性の支配)のスカトロジーはコンフィデンスマン(倒錯性の支配)のスカトロジーへ立ち戻れ!
「芸術愛のパン(イエス・キリスト)」は「芸術愛のパン(イエス・キリスト)」へ立ち戻れ!
もしコンフィデンスマン(倒錯性の支配)のスカトロジーが「芸術愛のパン(イエス・キリスト)」とされるなら、それはもうコンフィデンスマン(倒錯性の支配)のスカトロジーではない。
それはイマーゴ(神の似姿)を持った「芸術愛のパン(イエス・キリスト)」となっている筈なのです。
「ヲタク芸術」は「無理の超越」であって「バフォメットの偶像崇拝」なのです。
「ヲタク芸術は死すべし」なのです。
(再編集版)