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聖宮崎駿ルパン三世作品論集成 エピソード0
【カトリックアニメ信仰】
friend [frénd]
[中期英語 friend,frend,古期英語 frēond 友,恋人,親族〔もとは frēogan(⇀FREE)の現在分詞;ゴート語 frijōn「愛する」と同語源〕;ドイツ語 Freund と同語源]
「殉教者(確信性の確保)のユーモアとコンフィデンスマン(倒錯性の支配)の神格化」を考察する
副題 宮崎駿監督は「神とことば」への「確信性の確保」を持って作品製作を行う故に「聖宮崎駿」と呼ばれる
「神とことば」と「羊頭狗肉」
白馬に乗る誠実と真実の騎士
〔典拠〕黙19:11-16
〔要旨〕天が開け、白馬に乗った誠実および真実と呼ばれた騎士が現れる。血に染まった衣をまとい、頭には多くの冠をかぶっている。口からは剣が出、鉄の杖を手にして諸国を治める。純白の麻衣を着た天の軍勢は白馬にまたがり彼に従う。中世の注釈によれば、騎士はキリスト、白馬は罪を免れた彼の肉体である。血に染まった彼の衣は、贖いの死または殉教者のそれを意味する。4人の騎士中の射手をキリストとする中世的解釈を認めるとすれば、キリストが騎士の形をとって現れるのは黙示録では2回目である。いずれもキリストは白馬に乗っているが、勝利の象徴。彼に従う天の軍勢は教会を表わす。
〔図像〕白馬にまたがり、天の軍勢を引き連れたキリストは口に剣をくわえる。
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終末の緒戦(黙19:11-16)
私は、天が開かれているのを見た。そして一頭の白い馬〔が現れた〕ではないか。その馬に乗っている騎士は、「信頼でき真実なる者」[と呼ばれており]、彼は正義をもってさばき、〔正義のために〕戦う。その目は火の炎[のよう]であり、その頭には多くの冠〔が戴かれていた〕。また、彼以外は誰も知らない、一つの名前が書かかれていた。彼は血で染められた着物を身にまとい、その名前は「神の言葉」と呼ばれた。
天の軍勢が、白く清い麻布の着物を身につけて、白い馬に乗って、彼に従っていた。彼の口からは鋭い太刀が出ている。その太刀で諸民族を打つためである。この者が、鉄の杖でもって彼らを支配する。また、この者が、鉄の杖でもって彼らを支配する。また、この者が、全能者なる神の激した怒りの〔込められた〕葡萄酒の酒ぶねを踏む。その者の着物にも腿にも、「王たちの王、主たちの主」という名前が書かれている。
私はまた、一人の天使が、太陽の中に立っているのを見た。この天使は、空高く飛んでいるすべての鳥に向かい、大声でこう叫んだ、「さあ、神の大宴会に集って来い。王たちの肉、千人隊長たちの肉、権勢ある者たちの肉、馬たちやその騎手たちの肉、また自由人も奴隷も、偉大な者も卑小な者も、ありとあらゆる〔人間たち〕の肉を食え」。
私はまた、かの獣と地上の王たちとその軍勢とが、馬に乗った騎士とその軍勢とに戦いを挑むために、結集しているのを見た。しかし、獣は捕らえられた。またこの獣の面前でもろもろの徴を行なって、獣の刻印を受けた者たちや獣の像を礼拝する者たちを惑わしたかの偽預言者も、獣と一緒に捕らえられた。これらの両者は、生きながらに、硫黄の燃えている火の池に投げ込まれた。皿そして、残りの者たちは、かの〔白い〕馬に乗った騎士の口から出る太刀によって殺され、すべての鳥は、彼らの肉を飽きるほど食べた。
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「神とことば」への「確信性の確保」を持った「信用」は「誠実と真実」と同義です。
そういった「信用」は「聖性」とされる。
「神とことば」への「確信性の確保」とは「コミュニケーション」を意味しています。
コミュニケーション
communication
言語,身ぶり,画像などの物質的記号を媒介手段とした精神的交流のこと。語源はラテン語で「分かち合う」を意味する communicare。歴史的には物質的記号は初期の身ぶり,叫びなどの直接的で無反省な状態から,明確な言語などの普遍的かつ間接的な状態へと発達した。コミュニケーションの過程は,精神的内容を物質的に表現する送り出しの段階,受け手によって受容される段階の2段階から成る。また,その内容は分析的に知的理解のためのものと,情緒的な伝播を目指すものとに分けられる。人間社会を成立させる基礎的な条件であり,特に今日ではマス・コミュニケーションが高度に発達して大きな影響力をもっている。
マス・コミュニケーション
mass communication
新聞,雑誌,図書,映画,テレビ,ラジオなどのマス・メディアを通して多数の人々に向けてなされる⇨コミュニケーション。パーソナル・コミュニケーションが,会話などのように,個人的,直接的な接触による相互伝達であるのに対して,時間的,空間的距離をへだてて間接的にコミュニケーションが行われ,また送り手は常に送り手であり,受け手は常に受け手であるというように,一方的な伝達である。受け手は自分に興味のもてるものでなければそのコミュニケーションとの接触を避けるので,受け手に対する訴えの効果を高めるために,受け手の感情や欲求に訴えるような刺激的な表現や扱い方が用いられる傾向がある。
「神とことば」を持つ「コミュニケーション」とは「精神」を示しています。
せいしん【精神】
pneuma; spiritus; Geist
非物質的現象またはその基体とされる実体をさす概念。その直接的認識は不可能なので精密な概念規定はなく,各思潮,各学派などで異なる。原語は風,息吹きを意味し,人間に宿るきわめて軽妙なものと考えられ,生命の原理とされる。ここから神,天使なども精神とされ,特に神から離反する肉に対し神に従う霊と同義に用いられた。一般には思考全般をさし,対象に対する主体が精神とされ,また物質,生み出されたものとしての自然,本能としての肉などに対立するものとされている。狭義には感性に対する知性をさし,転じては学説や制度などの中核的理念をも意味する。
一方で「神とことば」への「確信性の確保」を持たない「信用」が存在しています。
「神とことば」への「確信性の確保」を持たない「信用」とは「広告宣伝」による「アジテーション」(人工林)を意味しています。
せんどう【扇動】
アジテーション agitationの訳。大衆の意見や行動を特定の方向へ直接導くための意図的活動をいう。特に大衆の感情や本能を刺激するが,視覚よりも聴覚に訴えることが効果的であるとされている。そして大衆に対してそのような働きかけをするものをアジテーター(扇動家)という。⇨レーニンは⇨宣伝と扇動を区別して,大衆の潜在的な不平不満を外に引出すための操作を扇動と呼んでいる。法律上は,他人に違法行為を実行する決意を生ぜしめ,またはすでに生じている決意を助長させるような勢いのある刺激を与えることもいう。言動のほか,文書,図画による場合も含む。教唆的行為を正犯として独立に処罰する法規としては,破壊活動防止法,爆発物取締罰則,国税犯則取締法,地方税法,公職選挙法などがある。国家公務員法,地方公務員法でいう「⇨あおり」も同じ意味である。
それは「神とことば」へのオマージュ(尊敬)を持たない故に「誠実と真実」が存在していないのです。
「誠実と真実」を持たない「信用」とはコンフィデンスマン(倒錯性の支配)と同義でした。
そういった「神とことば」への「確信性の確保」に対して発症していく反骨精神とは「精神病」と言えるのです。
「誠実と真実」を欠落した「信用」を弄することでアジテーションしていくコンフィデンスマン(倒錯性の支配)とは「精神病」(狂気)と診断されます。
コンフィデンスマン(倒錯性の支配)とは「頭のおかしな人」(狂気)と言えます。
魔女と魔術師
人間社会に害を与える超自然的能力を備えた人たち。魔女は普通、いずれもひげのある老醜女とされている。その起源は恐らくオリエントの異教に発し、北欧諸民族の民話と混淆し、とくに十字軍以後、東方との接触が密になってアラビア人やユダヤ人の魔術信仰も加わり、ついにはキリスト教内部にまで浸透するに至った。14世紀以来、魔女裁判は盛んになったが、16世紀の宗教革命期は異端者をもこれに巻き込み、「女呪術師などはいかしておけない」(出22:17)「あなたの間に呪術師などがいてはいけない」(申18:10以下)などの聖句をもとに恐るべき拷問や残忍な処刑が18世紀まで続けられた。一般に彼らは悪魔と契約して、血で署名した羊皮紙を心身を悪魔に委ねる旨明記する。その見返りに金銭を得、肉体に悪魔の印刻が残る。彼らは(1)天候を左右する。(2)農作物の収穫に影響する。(3)自他ともに動物(狼、猫、ひきがえるなど)に変身させる。(4)預言する。(5)空中や会場を箒や笊を使って自由に飛行、航行する。(6)邪魔者は呪い殺す。(7)無生物に命を吹き込む等々の超能力の持ち主。彼らは安息日の夜集会し、猥褻な儀式を行って、牡牛や牡羊の形の偶像を礼拝する。彼らは不感症のため針や釘で身体を突いたり刺されたりしても痛痒を感じないし、感情がないので泣きわめいたりしない。初期キリスト教美術には、あたかも魔法使いのように杖か棒で奇跡を行うモーゼやキリストをカタコンペの壁画、石棺浮彫に見るが、これらの図像は中世には見られない。しかし、15世紀後半から宗教改革の盛期には魔女、魔女裁判の図像がことに北欧版画に多くなり、ショーンガウア、デューラー、クラナハ等の巨匠の作品に見られる。
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魔術的思考(マジュツテキシコウ)
[英] magical thought
超自然的存在(神,霊)に関連した原始的思考の一型。自然現象や人間の世界の出来事を支配するのは多種多様の超自然的霊である,というアニミズム的な考え方に基づく。そこから,いろいろな文句,儀式,供犠,難行などの呪術によってそれらの霊と交流し,人間生活のあらゆる面に奉仕させようとする態度が生まれてくる。魔術的な思考様式は,似たものは似たものを生ずるという考え方と,かつて互いに接触したことのある事物は相離れていながらもなお互いに影響し合う,という考え方の2種類に大別できる。魔術的思考は,祈祷性精神病と関わりをもったり,あるいは強迫体験における思考様式と類似することが知られている。
(511065)
魔術
まじゅつ magic
〈魔術(マジック)〉という言葉は主として3通りに使われている。(1)〈手品〉ないし〈奇術〉。つまり一見不可思議なことを知られざる合理的手段で達成する手練の技。(2)〈呪術〉。すなわち呪物や呪文を用いて超自然的な現象を起こさせると信じられている方術。(3)〈魔法〉。いいかえれば,人間が内なる可能性を完全に開発して,人間を超える存在と接触したり,その存在になりきったりする超越の方法。ここでは第3の意味に限定して用いることにする。第1の意味については〈奇術〉の項目を,第2の意味については〈呪術〉の項目を参照されたい。
マジックという英語は,ギリシア語のマギケmagik^ つまり〈マゴス magos の技術〉に由来する。マゴス(ラテン語ではマグスでその複数形がマギ)とはメディア王国やゾロアスター教の神官階級を指し,彼らは火を統御することにより不可視の世界と交わり,さまざまな神変加持力を発揮していた。人類が可視的世界の背後に不可視の諸力の実在を実感していた古代世界においては,その諸力を支配する技術が文明の重要な基盤の一つとなっていた。現代では物理的諸力を掌握する科学技術が文明の動向を決定する大きな力の一つになっているように,古代では超自然的諸力(神々,女神,神霊,魔神,天使などさまざまな名まえで呼ばれる)を自在に統御しうる技術が存在し,宗教,学問,芸術,制度,王権の根拠となっていたのである。この種の技術は,ヨーロッパではキリスト教の制覇とともに,異教や異端の名のもとに弾圧されるようになり,神から離反する悪魔の所業とみなされるようになった。そのためこの古代技術は錬金術や神智学の形をとって秘密裡に伝承されるようになり,神秘思想の伝統の一翼をになった。一方,魔術は他の文明圏では一概に邪悪視,危険視されることはなかった。インドのヨーガやタントラ,中国の神仙道は一種の魔術といってもよい側面をもっているが,ヨーロッパにおけるように厳しく排斥されることはなかった。
あらゆる魔術に共通な原理と方法と特質とを次のような7項にまとめることができよう。
(1)世界の重層構造論。世界とは決して斉一ではなく,絶対者たる〈神〉から流出し,質料に至ってその影をとどめる〈物質〉までの重層構造をもっている。われわれの感覚世界は最後の一層にすぎず,その上には超感覚的世界が幾重にも重なり,各層には各層なりの特質をもつ諸力が時空を超えて存在している。
(2)諸力の認識可能性。それらの諸力は通常の感覚ではとらえることはできないが,修行によって知覚する内的能力を獲得することができる。一つは想像力,二つは霊感,三つは直観である。これらの能力を身につけた者にとって,諸力は単なる信仰の対象ではなく,明晰判明な認識の対象となる。
(3)形相の同一性。各層は浸透し合う連続体であると同時に,みずから境界をもち,上と下とは形相の同一性によって照応し合っている。ある人物をテレビに映し,それを写真にとり,さらにコピーすると,実物→テレビ→写真→コピーと四つの次元を異にした表現が可能であるが,どれもその人物の形相をとどめている限り,その人物と認知することができる。この形相の同一性を行為で表現したものが儀式であり,物質で表現したものが象徴である。
(4)象徴体系。魔術とは儀式や象徴を用いて各層の諸力と自由に交流する技術である。象徴体系とは無意識領域,つまり“隠れた”領域に通用する言語であって,特定の文法,意味の体系,単語,文字,音韻をそなえている。この言語に習熟することによって,内的世界が次々と開かれ,意識によって閉ざされてしまった大宇宙との交流が可能になる。象徴という言語に通暁しない者にとって,儀式は未知の外国語のようなものだが,それを使いこなせれば,儀式とは超感覚的世界の諸力を実感しその恩恵を得る特権的な場となる。あらゆる儀式はある意味で一つの魔術なのである。
(5)波動,響き,神名。各層に存在する諸力は一定の波動をもち,それに同調するためには通常,楽器や音声による響きをもってする。その響きが後には〈神名〉として伝わっている。〈名〉を称えることはその力を呼び出すことであり,その響きの中で万有を共鳴させることである。古来,魔術が〈呪術〉つまり言語マジックを中心としていることは偶然ではない。
(6)神人合一。各層に存在する諸力と共鳴関係に入ると,魔術師は自分の人格を解体させて,その力と一体化する。いいかえればその力に変身し,その力のもつ形を帯びるようになる。次元の低い諸力から始めて,各層の諸力との一体化を次々に修練して,究極的には絶対的な〈一者〉に合一することが魔術の目的である。
(7)神秘主義,科学,宗教,哲学との相違。人間は上には〈神〉と,下には〈物質〉とつながる中間者である。その特権を生かして上にも下にも向かうことができる。魔術は多くの神秘主義のように上に向かうことだけに専念するようなことはしない。また科学のように下に向かうことのみに集中することも避ける。上にも下にも自在に往来し,それにより天と地と人の三才を一身に体現することを志す。宗教は恩寵をもたらすが魔術は過酷な修行を強いる。その技術そのものは道徳的に中立なので,善用するか悪用するかはもっぱら魔術師の責任に帰する。哲学は思索と観想をめぐらすが,魔術はつねに実践に結びつく。哲学は論理を展開するが,魔術は象徴を駆使するのである。
大沼 忠弘
[魔術観の変遷] 魔術は中世ヨーロッパでは一般に,霊魂を呼び出し超自然的現象を起こさせる技術とされ,とくに邪霊を使う魔女の術witchcraft と同一視された。またキリスト教にいう悪魔と関係をもつ魔術を黒(くろ)魔術 blackmagic,天使や善き精霊の力を借りる術を白魔術white magic として区別した。しかし F. ベーコンなどにより〈真正の魔術〉と呼ばれた自然魔術natural magic は,霊魂ではなく医薬や磁力や言語の表象機能を魔力の源泉とするもので,ルネサンス期の魔術観の中核を占めた。これらは,対象と手段とに応じて占星術や錬金術,カバラの術などに細分され,近代科学の有力な一源泉になる一方,星や太陽の影響力を正しく測定し人間の未来を予言する万物照応の術,すなわち手相,人相,骨相などを含む観相術をも発展させた。なお自然魔術については19世紀以降に民俗学への関心が高まったことに加え,アフリカ人や中国人などがもたらした彼ら独自の魔術の体系が新たな興味を呼び起こしていることが注目される。
近世以降に重視されるようになった概念としては儀式魔術 ritual magic も重要である。フリーメーソンの発展など秘密結社運動の活発化にともない,秘密の入社式(イニシエーション)は魔術概念の身体的表現ともみなされ,とりわけパリやロンドンのような都市に集まったボヘミアンの中に賛同者を見いだした。この方面ではとくに文学や美術や舞踏などの創作にみるべきものが現れている。19世紀末の魔術運動にみずから参加したJ. K. ユイスマンス,A. マッケン,B. リットンらの作家は,魔術そのものを文学の主題に据え,儀式魔術の美学的特性を大いに喧伝した。またタロットが新しくデザインされ,ラファエル前派やフランス象徴主義が隆盛を極めたのもこの時期にあたる。フランスでは J. ペラダンを中心に薔薇十字主義の芸術サロンが生まれ,E. サティの音楽などが作られている。なおブルトンのシュルレアリスムにも魔術に対する深い関心がうかがえる。総じて19世紀の魔術復活は既成社会の腐敗と混乱とに対抗した一種の退行的ユートピズムとみることもでき,その表現として儀式魔術が恰好の媒体となったと考えられる。
ところで,儀式魔術についてはセックスと麻薬を中心に据えた秘儀の系統が現代もなお力を得ており,A. クローリーをはじめ数々の教団組織者が出現している。クローリーの影響がとくに強いアメリカ西海岸では,1970年以後これら性的儀式を売りものとする反体制的なアンダーグラウンド集団が多数組織された。S. テート殺し事件を起こしたC. マンソンの〈ファミリー〉はその極端な例であろう。これらの秘儀はさらにロック音楽やアートと結合して商業化され,一時はカリフォルニアに多くの魔術講座や専門学校も開かれた。そこでは学費を払えば,だれでも黒ミサに参加したり魔術名を授かることができた。また映画《エクソシスト》の大ヒットにみるとおり,悪魔憑きへの興味も大きく盛り上がった。これらはポップ・マジック pop magic とかポップ・オカルト pop occult と呼ばれ,都市の若者に支持されたが,80年代にはいり神秘主義や東洋思想といったいっそう大きな精神文化の潮流へ吸収されつつある。
また魔術的解釈による宇宙論や自然論といった哲学レベルの問題も近世以降の人々を刺激し,18世紀末には死後の生命の行方に関連して人々の興味をひくようになった。たとえば F. A. メスマーの動物磁気が霊媒の入神現象を解明する鍵とみなされ,透視や霊界交信に応用する試みが開始された。さらに世界を霊,魂,体に三分割する魔術的思考は,メビウス,ミンコフスキー,アインシュタインらの新しい時間論や次元論と部分的な親和性をもち,ユークリッド=ニュートンによる従来の物質像を覆す役割の一端をも担った。また科学者の中にも古代宇宙論や東洋哲学,ならびにオカルティズムに関心を示す人々が現れている。A.R. ウォーレス,H. マイヤー,O. ロッジらは心霊現象に注目した科学者たちである。さらに心理学は無意識の問題や人間の霊性の進化といった魔術の課題にメスを入れている。C. G. ユングが錬金術に深い関心を寄せ,その象徴体系を心理学の面から解明しようとしたことは,今日広く知られている。 荒俣 宏
[魔術と近代科学] 科学と魔術との関係は,ごく単純に考えれば,科学は魔術と敵対するものであり,歴史的にみても,魔術の〈非合理性〉を指弾し克服する形で誕生し発展してきたと考えられる。また内容上も,魔術を迷信として退けうる明確な根拠は自然科学に求めることができるということにもなろう。しかし,科学と魔術とは,一見して得られるこうした印象をはるかに超えた複雑な関係を示している。その第1は,歴史上の問題であり,第2は内容上の問題である。科学がヨーロッパ世界の所産である以上,第1の歴史にかかわる論点も,記述はヨーロッパに限定されることになるが,ヨーロッパにおいて魔術が知識のレベルも含めてひじょうに大きな力をもちはじめたのはルネサンス期のことだった。〈12世紀ルネサンス〉を経て,ギリシア・ローマ,イスラムの学問をわがものにしたうえで,それらをキリスト教と融合させ,スコラ学という合理的な知識体系をつくりあげたあとでさえ,ルネサンス期までは,ヨーロッパ世界は魔術に対し一貫して否定的な態度を取り続けた。
教父時代の末期,アウグスティヌスはプラトン思想(ないし新プラトン主義思想)への強い関心と敬意を抱きながらも,それが魔術と近親性をもつという理由で,最終的には拒斥した。以来,キリスト教の正統派は,魔術を非合理なものとして,厳しく弾劾したのである。ここでは,旧約,新約を通じて聖書に登場するさまざまな奇跡を守らなければならない,という護教論的な配慮が働いていたといえる。奇跡も魔術も,現象のみを取り上げれば,どちらも通常自然の能力として見積もられている範囲を超えたものである。しかるに奇跡を魔術から区別するのは,それが神の力の顕現と認めうるか否かにかかっており,しかもその認定の根拠は必然的に信仰の内部にしかない。それゆえ,キリスト教信仰が,奇跡の正当性を守るために奇跡まがいの魔術を厳しく否定しようとするのは,ほとんど論理的必然であった。
ルネサンス期に入って,オスマン・トルコの圧迫,ビザンティン帝国の崩壊などをきっかけに,当時としては〈異教〉的な色彩の強いさまざまな思想体系――ヘルメス主義,カバラ主義,記憶術など――が,主としてフィレンツェのプラトン・アカデミーを中心に,プラトン主義の名の下に紹介されはじめた。こうした状況のなかで,魔術もまた新しい装いと意味付けを伴って復活したといってよい。世界の中の人間の位置,自然の構造の新しい探究方法として,しかも当然のことながら,キリスト教的な世界観との融合を前提として,魔術はもう一つの知の体系たりえたのである。たとえばピコ・デラ・ミランドラは,魔術的な超自然的行為も結局は神に帰するものとして理解すべきであると説き,あるいはネッテスハイムのアグリッパは,異教的な魔術の存在を認めつつなお,カトリック信仰こそ真の魔術の源泉であると主張している。そうした場合の魔術(とくに〈自然魔術〉)は,〈すべての自然の事物と天界の事物とをひき起こす力を考察し,それらの間の相互関係を詳しく探究し,その間の目にみえない神秘的な力を知るための術〉であり,その知識を得ることによって,〈奇跡と思われるような驚くべきことを起こさせる〉ものである,と定義される。
このような魔術的な自然観は,一方では従来の訓詁的・注釈的な学問を改革し,地上界のみならず天界をも含む自然を徹底的に自分たちの感覚を総動員して探索するという,実証的・実験的な態度を奨励すると同時に,通常では用いがたい,しかしもともと自然のなかに“隠され”ていて掘り起こして用いることのできる力を探り当てることによって,自然現象を制御しようとする技術的感覚をも育てることになった。つまり,自然についての知識とそれを利用しての自然支配という,近代科学技術の発想のひな型がここにある。F. ベーコンがこうした自然魔術の観念を背景に〈知は力なり〉と宣言したのは決して偶然ではない。実際,16~17世紀の近代科学創設期の人々でこうした知的土壌の影響を受けなかった人物を探すことは困難である。ルネサンス期のキリスト教的・魔術的世界観こそ,ヨーロッパにおいて近代科学を誕生させる不可欠の要素の一つであった。
第2の内容上の問題もまた,上に述べたことに関連する。現代の科学技術は,まさしく,自然のなかに隠されている諸力を掘り起こし,人間がそれを利用することによって,通常の自然過程では起こりえない奇跡的なことがらを実現している,という点で,アグリッパの魔術の定義そのままである。科学技術の所産は,それを知らない人々にとって,魔術としかいいようがあるまい。さらに,たとえば,未開社会における呪術師と為政者との関係は,現代先進社会における指導的科学技術者と為政者とのそれにひじょうによく似ている。違いといえば,未開社会で呪術師の予言や提言が外れれば,しばしば厳しい処断が待っているのに対し,先進社会では科学技術者の地位はいつも安泰である,というところぐらいかもしれない。
このように考えてみると,科学(あるいはそれと結びついた技術)と魔術の距離は予想以上に近いことがわかってくる。何をどこまで,自然のなかに隠されている力として認めるか,という点で意見の食い違いが生じたとき,科学と魔術とが分かれるといえるのかもしれない。その場合は,否定されるべき意見が〈魔術〉の名を冠されて排斥されることになり,場合によってはむしろそのことを利用した〈魔術師〉が自己の卓越性,ユニークさの宣伝材料として魔術の名を利用する場合も生まれる。しかし科学の歴史を調べても,何をどこまで〈自然〉に帰するのか,という判断基準はつねに動揺しており変化していることがわかる以上,科学と魔術との関係は,簡単には割り切れないということを繰り返さなければならない。⇒オカルティズム∥神秘主義∥ヘルメス思想
村上 陽一郎
せいしんびょう【精神病】
psychosis
精神障害の総称であるが,精神医学の専門家の間ではもう少し限定して用いる。1つの考え方では,病的な精神現象の背景に身体的変化の確認ないしは想定ができる場合をいう。したがって,心因反応,神経症,人格障害は除き,知的障害も別の概念で取扱う。しかし,この考え方はすでに過去のものともみられ,今日では精神障害の程度の差を段階的に区別して,重症の場合を精神病と呼ぶ。軽いものは非精神病性精神障害という。
mad [mǽd]〓
―adj. (mad・der,mad・dest)
1 〈人が〉(…で)気の狂った,狂気の,乱心した,精神の錯乱した(insane)(↔sane)(▶文字どおりには,重症でしばしば狂暴性があることを意味する);(…で)気が狂わんばかりの⦅with,by ...⦆:〓
2 ⦅主に米話⦆ 〈人が〉(人に)(…のことで)頭にきて,腹を立てて,激怒して,いらだって⦅at,with ...;at,about,for ...⦆(▶(1)この意味では*go mad とはいわない. (2)angry と異なって怒りが顔に出ないことがある):〓
3
(1)〈動物が〉狂暴な:〓
(2)〈犬・馬などが〉狂犬[恐水]病にかかった:〓
4 〈人・計画・行為などが〉全くばかげた;向こう見ずな,無分別な,むちゃな,突飛な;不合理な,筋の通らない:〓
〓〓
5 〈人が〉(…で)狂わんばかりに興奮した⦅with ...⦆;〈人・行為などが〉常軌を逸した;⦅ジャズ俗⦆ 〈演奏者が〉うまい,エキサイティングな:〓
6 ⦅話⦆ (…に)熱中[熱狂]して,夢中になって,のぼせ上がって,うつつを抜かして,いかれて⦅about,after,at,for,on,over ...⦆;⦅しばしば複合語⦆ …に夢中の,…狂の:〓
7 〈人が〉(…を)欲しくてたまらない⦅after,for ...⦆;(…)したくてたまらない[うずうずしている]⦅to do⦆:〓
8 ひどく陽気で,大浮かれの:〓
9 〈風・嵐(あらし)などが〉激しい,猛烈な:〓
―n. (ひとしきりの)怒り,立腹,不機嫌,かんしゃく:〓
―v.t. (mad・ded,mad・ding) ⦅古⦆ …を発狂させる;激怒させる.
―v.i. (mad・ded,mad・ding) ⦅古⦆ 気が狂っている,気が狂う;狂ったよいな振る舞いをする;激怒する.
◊[刊行物]Mad 米国の映画・広告・漫画などのパロディー誌,1953年創刊.
[映画]Mad Max『マッドマックス』G.Miller 監督,M.Gibson 主演(1979,豪).
[900年以前. 中期英語 mad(形容詞),madden(形容詞からの派生語で自動詞);古期英語 gemǣd(e)d(*gemǣdan「発狂させる」の過去分詞)]
マッド‐サイエンティスト〖mad scientist〗
SF作品などに登場する、常軌を逸した天才科学者。利己的な欲望・目的を遂げるために科学を悪用したり、研究に没頭するあまり倫理を逸脱したりして、奇想天外な発明を行い、恐怖や混乱を引き起こす。
mád scíentist
SF(小説,映画)などに登場する科学を悪用する科学者.
例えば最近、坂本龍一さんの「神格化」が進んでいます
「神格化」とは「ステッドマン医学大辞典」によると「カルトの定義」の一つでありました。
「神格化」とは「非現実的な理想化」であるのです。
そういった「神格化」とは一概に「阿弥陀如来の神格化」と評することができます。
「非現実的な理想化」は「無理の超越」を意味している。
それは崇拝によって神の如く祀り上げることであり一般に「カルト」と言われる。
「神格化」とは「非現実的な理想化」であって神のごく祀り上げる「カルト」だった。
このような「非現実的な理想化」を芸術活動とする作家は「ヲタク芸術家」と言われる。
「ヲタク芸術」の不可能性と詐欺性は証明された。
もう「ヲタク芸術」は終わっている。
一方で「理想の現実化」とはイマーゴ(神の似姿)を持った芸術製作である。
イマーゴ(神の似姿)を持つ者にはロゴス(恵みと真理)が建つのです。
そのようなイマーゴ(神の似姿)を持った芸術家とはオマージュ(敬意)を生んでいく。
それが美と崇高とユーモアの概念となっている。
これが「芸術」なのです。
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imago Dei 〔L.〕
神の似姿〔カトリック教会〕
〈91学術・キリスト教〉
imago, pl. imagines (i‐mā′gō, i‐maj′i‐nēz)〓
[L. image].
1. 成虫(昆虫の変態の最終段階で,卵,幼虫,さなぎを経た後に完成される.成虫体).
2. =archetype (2).
イマーゴ
[英] imago
[独] Imago
個人が他者を把握する手段を方向づける無意識的な人物の原型。ユング(Jung CG)が概念化し,その後精神分析学で広く用いられている用語。無意識的表象ともいい,他者を知覚する際の期待やフィルターとして作用し,他者に対するわれわれの感情や行動を方向づけ,他者がどのように知覚されるかを決定し,部分的に対人関係を支配する。
(511090)
オマージュ〖(フランス)hommage〗
敬意。尊敬。また、献辞。賛辞。
hom・mage [Fr. ᴐmaːʒ]
―n. ⦅フランス語⦆ オマージュ:芸術家・作家などへささげる敬意,またそれを表すための芸術作品の献呈. cf. HOMAGE
例えば「クチャクチャ顔の笑顔(愛くるしい笑顔)」とは「偶像崇拝と呪術崇拝」の「非現実的な理想化」への崇拝です
そのような「非現実的な理想化」とは「後光が差す」と言われる「阿弥陀如来の神格化」と同義であって典型的な「ヤンキーの神格化」なのです。
あい‐くるし・い【愛くるしい】
〖形〗
(幼児などの顔やしぐさが)大層かわいらしい。「—・い表情」
あいくるしい【愛くるしい】
lovely; charming; cute
人気俳優の柳葉敏郎さんは「クチャクチャ顔の笑顔(愛くるしい笑顔)」を得意とする典型的な俳優でした。
1991年製作高畑勲監督作品「おもひでぽろぽろ」でアニメ化された時のギバちゃんは「クチャクチャ顔の笑顔(愛くるしい笑顔)」を「キラースマイル」として弄する「怪人」のようでした。
はっきり言ってギバちゃんの「キラースマイル」は私のトラウマとなってしまいました。
「キラースマイル」の「怪人」を「誠実と真実」と見做すことに対して不信感を抱いたからです。
※小泉純一郎を思い起こします。
人が「キラースマイル」だけで決まるなら人の存在とは「軽薄短小」でしかありません。
スマイル一つとっても「イマーゴ(神の似姿)からロゴス(恵みと真理)を建てるタイプ」と「決め打ちスタイル」では全く違うのです。
「イマーゴ(神の似姿)からロゴス(恵みと真理)を建てるタイプ」のスマイルとは「コミュニケーション」(自然林)です。
それは作り笑いなんて価値がない、本物の笑顔にこそ価値があるということです。
マクドナルドの「スマイル0円キャンペーン」はとても有名です。
一方で「決め打ちスタイル」のスマイルとは「アジテーション」(人工林)です。
「アジテーション」(人工林)とは「定型的なカンバセーション」(コピーライティング)です。
それは作り笑いでしかなく、偽物の笑顔です。
それは害しかないのです。
このような「決め打ちスタイル」は「科学的思考」の拒否を要請することを意味し「カルト思考」に陥ることになります。
「カルト思考」とは「偶像崇拝と呪術崇拝」の「非現実的な理想化」への崇拝です。
それが「キラースマイル」です。
スカトロジーも「キラースマイル」の一種です。
例を挙げると天才騎手・武豊の騎乗は「決め打ちスタイル」であって「イマーゴ(神の似姿)からロゴス(恵みと真理)を建てるレース」は一つもなかった。
sca・tol・o・gy /skætáləʤi | ‐tɔl‐/
—〓 〓 [軽蔑] 糞尿嗜好(文学), スカトロジー.
スカトロジー〖scatology〗
糞尿(ふんにょう)や排泄(はいせつ)行為についての話。また、それを好んで話題にする趣味、特に文学作品。スカトロ。
糞尿すらも「非現実的な理想化」によって崇拝の的とされるのです。
それは「科学的思考」の拒否による「非現実的な理想化」によっています。
私はこのスカトロジー経験によってPTSDを発症してしまいました。
今でも嫌悪感がフラッシュバックしてしまいます。
これはジブリ作品からPTSDを発症した症例です。
posttraumatic stress disorder (PTSD)〓
心的外傷後ストレス障害(①通常,ふつうに人間が人生を送る上では経験しないような心的外傷体験の後に生じる特徴的な症状であり,このなかには原因となった外傷体験の反復する再体験や外傷を思い起こさせるような刺激の回避,外的刺激に対する無感覚,様々な自律神経機能障害および認知障害,不快気分が含まれる.②DSM診断の1つで特定の診断基準を満たせば確定する).
典型的な有名人はみんなこのような「クチャクチャ顔の笑顔(愛くるしい笑顔)」を弄する「阿弥陀如来様」です。
しかし「阿弥陀如来様」とはコンフィデンスマン(倒錯性の支配)と同義なのです。
![](https://assets.st-note.com/img/1713789411754-Mqlxj9Oftc.jpg?width=800)
de・i・fi・ca・tion [dìːəfikéiʃən]〓
―n.
1 神(格)化;神として祭ること.
2 神にされること;神として祭られること.
3 神(格)化したもの,神の化身;神として祭ったもの,神体:〓
[1393年以前. 中期英語 deificacion<後期ラテン語 deificātiō;⇀DEIFIC]
同様に坂本龍一さんの芸術作品とは「神とことば」を倒錯することで成り立っています
そういった坂本龍一さんの奇妙な反骨精神とは「反抗期のヤンキー精神」と同義であり愚かで幼稚なあり方だったのです。
はん‐こつ【反骨・˟叛骨】
権威・権力・時代風潮などに逆らう気骨。「―精神」
◗反骨精神
a rebellious spirit
◾当局に反骨を貫いた
He remained uncompromising toward the authorities.
◾反骨の画家
an antiestablishment artist
もっと言えば坂本龍一さんとは決して高尚ではなく恐ろしく劣等な有名人だった。
例を挙げれば坂本龍一さんの主張した「テクノポップ」は「時代風潮」そのものであって「神とことば」への反逆者でありました。
当然、「神とことば」によって「理屈」は形成されます。
それが基本です。
一方で坂本龍一さんの「テクノポップ」の主張とは「屁理屈」でしかなかった。
そういう意味で坂本龍一さんとは奇妙な反骨精神であって「反抗期のヤンキー精神」でした。
これは「屁理屈」で言い返してくる典型的な「反抗期のヤンキー精神」であって父親・安倍晋太郎さんが評した息子・安倍晋三さんにそっくりなのです。
安倍晋三さんは兎に角「言い訳の天才」だったらしい。
これは毎日新聞の岸井成格さんの証言によっています。
安倍晋太郎さんは政治活動に入る前に毎日新聞社に務めていました。
安倍晋太郎さんは岸井成格さんと毎日新聞社で同僚だったわけです。
安倍晋三さんも典型的な「ヤンキーの神格化」だったわけです。
そうなると「アベノミクス」とは「非現実的な理想化」の賜物なのでしょう。
要は「カルト思考」による「カルト」其の物なのです。
簡単に言って「反抗期のヤンキー精神」とは決して高尚ではなく恐ろしく劣等な存在を神格化するあり方でした。
本来の反骨精神とは「神とことば」への殉教者(確信性の確保)であって「芸術家」を示しています。
坂本龍一さんとは「神とことば」への反骨精神であって「芸術家」を冒涜していく「ヤンキー」を示していたのです。
坂本龍一さんとは「芸術家」ではなく「ヤンキーの神格化」であった。
だから坂本龍一さんを高尚な芸術家として高評価することは完全な誤謬なのです。
こういった「アンチ芸術家」を「前衛芸術」としてアジテーションすることで神格化している。
そういう意味で「前衛芸術の神格化」とは「ヤンキーの神格化」と同義であってコンフィデンスマン(倒錯性の支配)の隠れ蓑でした。
※草間彌生さんの「水玉模様」も「ヤンキーの神格化」であってあのヘアースタイルが象徴しています。
何故か「ヤンキーの神格化」はヘアースタイルがカッコ良すぎるのです。
しかしヘアースタイルで神格化するとはずいぶん貧相にも見えます。
「猿の毛づくろい」程度です。
彼らは人間と言うより猿に近いです。
それは「小手先の詐術」でしかありません。
坂本龍一さんとは「ヤンキーの神格化」であってコンフィデンスマン(倒錯性の支配)を示していました。
坂本龍一さんとは「アンチキリスト」であって「アンチ芸術家」であったのです。
坂本龍一さんはビースト(ビッチ)だったのです。
「神とことば」への殉教者(確信性の確保)とは「芸術家」であって人々からオマージュ(尊敬)を集めていきます。
しかし坂本龍一さんに対しては誰一人オマージュ(尊敬)を持っていないのです。
坂本龍一さんは「神とことば」への強烈な反骨精神があることから「ヤンキーの神格化」がなされることになります。
そういった「ヤンキーの神格化」とは「バフォメットの偶像崇拝」となっていくのです。
スタジオジブリとSONY
スタジオジブリ
ここで「スタジオジブリとSONY」と言う二つの例を挙げることができます。
聖宮崎駿は「神とことば」を持つことで「芸術家」と見做されます。
そういった「芸術家」とはオマージュ(尊敬)を集めることになります。
聖宮崎駿は「イマーゴ(神の似姿)からロゴス(恵みと真理)を建てるタイプ」と言えます。
一方で鈴木敏夫(※高畑勲)とは「ヤンキーの神格化」となっています。
そして「ヤンキーの神格化」とは「羊頭狗肉」であって「バフォメットの偶像崇拝」を示しているのです。
鈴木敏夫(※高畑勲)とはコンフィデンスマン(倒錯性の支配)なのです。
特にアニメ監督としての高畑勲はイマーゴ(神の似姿)を持たない東京大学卒業者だった。
※東京大学卒業で「イマーゴ(神の似姿)からロゴス(恵みと真理)を建てるタイプ」とは柄谷行人先生(夏目漱石)が最も有名です。
高畑勲は弁(屁理屈)は立ったらしい。
しかしそれは「定型的なカンバセーション」(コピーライティング)である故にアジテーション(人工林)であってメッセージ(誠実と真実)を持ったコミュニケーション(自然林)ではなかった。
それは高畑勲監督作品が政治的宣伝コンテンツであることを示している。
そういう意味で高畑勲は芸術家ではなくアジテーション(人工林)だった。
高畑勲は「定型的なカンバセーション」(コピーライティング)であり「決め打ちスタイル」だったのです。
高畑勲は芸術家として偽物であったわけです。
イマーゴ(神の似姿)を持つ者は弁(屁理屈)が立たずともロゴス(恵みと真理)が建つのです。
これで解るように聖宮崎駿はイマーゴ(神の似姿)があり彼の監督作品にはロゴス(恵みと真理)が建っていたのです。
高畑勲とは東京大学出身であり、アニメ業界のキャリア官僚待遇と言えました。
高畑勲には聖宮崎駿のようにイマーゴ(神の似姿)は一切なかった。
高畑勲作品は弁(屁理屈)が立ったがロゴス(恵みと真理)は全く建たなかったのです。
しかし東大出のアニメ業界の官僚待遇としてコネクションでキャリアを積んでいった。
アニメ映画「太陽の王子 ホルスの大冒険」の監督に高畑勲が大抜擢された理由とは「イマーゴ(神の似姿)からロゴス(恵みと真理)を建てるタイプ」からではなく東京大学出身のアニメ業界の官僚待遇がキャリア作りのために提供された優遇措置に過ぎなかったのです。
アニメ業界のキャリア官僚待遇とは典型的なアジテーション(人工林)を宣伝します。
そのためにアニメ業界のキャリア官僚待遇は「弁(屁理屈)が立つ作品」を制作するのです。
だから高畑勲はイマーゴ(神の似姿)がない故にロゴス(恵みと真理)は建たなかった。
しかしアニメ業界に於いてキャリアだけは第一人者だった。
高畑勲はイマーゴ(神の似姿)を持たない東大出のアニメ業界のキャリア官僚待遇でした。
イマーゴ(神の似姿)を持っていればロゴス(恵みと真理)は建つのです。
それが聖宮崎駿の才能だった。
では近藤喜文監督は果たして「イマーゴ(神の似姿)からロゴス(恵みと真理)を建てるタイプ」であっただろうか?
その答えはジブリ作品「耳をすませば」を鑑賞すれば何かを感じることができるかもしれない。
聖宮崎駿は近藤喜文を多くの作品で監督にしたかっただろう。
しかしアニメ業界のキャリア官僚待遇の高畑勲は近藤喜文を営利追求の為に酷使して殺してしまったらしい。
私は「太陽の王子 ホルスの大冒険」の絵コンテを読んでみた。
その高畑勲監督作品の絵コンテはかなり稚拙で下手くそに見えた。
![](https://assets.st-note.com/img/1715893535419-WXsEdWzJxk.jpg?width=800)
そこから「イマーゴ(神の似姿)からロゴス(恵みと真理)を建てるタイプ」の肖像を見い出すことは全くできなかった。
ただ高畑勲からは「弁(屁理屈)が立つ」だけでインテリを気取った傲慢な男の肖像を見い出せるのです。
聖宮崎駿は近藤喜文を「画(絵)が描ける」と讃えている。
ここで解るように高畑勲は近藤喜文を自らのために使用して画を描かせていたのです。
高畑勲は近藤喜文を利用するだけ利用したのです。
そして多分高畑勲はそれを完全に隠蔽したかったのです。
だから高畑勲にとって近藤喜文監督のジブリ作品「耳をすませば」は「目の上のたん瘤」だった。
何故ならジブリ作品「耳をすませば」の存在は高畑勲作品の正体を黙示してしまうからです。
聖宮崎駿は決して高畑勲を好いてはいない。
高畑勲作品を多く製作するなら近藤喜文作品を多く製作すべきだった。
それはジブリスタッフ全てが感じる悔恨であったのではないだろうか?
たぶん聖宮崎駿は高畑勲を実は酷く嫌っているのでしょう。
※聖宮崎駿は「高畑勲が近藤喜文を殺した。」と断言している。
ここで言えることは聖宮崎駿とは「羊肉」であり、鈴木敏夫(※高畑勲)とは「狗肉」でありました。
こういった「羊頭狗肉」が「スタジオジブリの神格化」のあり方なのです。
明らかに聖宮崎駿の才能と鈴木敏夫(※高畑勲)の才能は違っていました。
聖宮崎駿の才能は神から齎され、鈴木敏夫(※高畑勲)の才能は人から齎されたのです。
真の才能は聖宮崎駿であり、鈴木敏夫(※高畑勲)の才能はコネクションだったのです。
だから私は「スタジオジブリの神格化」ではなく「聖宮崎駿信仰のサクラメント」を強硬に主張しているのです。
何故ならコンフィデンスマン(倒錯性の支配)による「信仰弾圧」から「聖宮崎駿信仰のサクラメント」を守護するためです。
※「信用詐欺」は「信仰弾圧」によって成立する。
「耳をすませば」の思い出
![](https://assets.st-note.com/img/1715893502964-ZDrjE9bd3J.jpg?width=800)
近藤喜文監督の唯一のジブリ作品「耳をすませば」がありました。
ジブリ作品「耳をすませば」は京王線の聖蹟桜ヶ丘駅の周辺を舞台にしていると知人に教えられた。
彼はジブリ作品「耳をすませば」の舞台が聖蹟桜ヶ丘駅周辺であったために学生アパートをここに決めたのです。
九州の方から来ていると語っていたので彼にとっては憧れの場所だったのでしょう。
そして聖蹟桜ヶ丘駅周辺とは聖宮崎駿や近藤喜文が在籍した日本アニメーションがあった場所だったそうです。
一度彼に招待されて聖蹟桜ヶ丘周辺にあった学生アパートを訪れたことがありました。
そして多摩川の河川敷で野球をしました。
彼とは高尾山の登山も一緒にしました。
お互いに行き来したわけです。
そして彼と高尾山の奥にある小さな秘湯で一緒に温泉に浸かりました。
登山後に高尾駅前にあるラーメン屋でご飯を一緒に食べていた時に私は疲れ過ぎて気を失ってしまいました。
私はコップを持ったまま気を失ってしまったのでした。
私が持っていたそのコップは割れてしまい彼から白い目で見られてしまいました。
彼は私をあまり心配してくれませんでした。
![](https://assets.st-note.com/img/1715467242255-VnHxFNEnF2.jpg?width=800)
拓殖大学在学中の高尾山登山
高尾山へ登頂し丘陵沿いを歩いていくと休憩所があった。
知人は中央大学の学生だった。
彼は海外へ一人旅へ向かう前にリュックを背負って高尾山を登山したいと言い出した。
予行演習というわけらしい。
![](https://assets.st-note.com/img/1715467242208-kt5cgn56v2.jpg?width=800)
高尾山を登頂し丘陵沿いを歩いて下った先の民家に高尾の秘湯があった。
![](https://assets.st-note.com/img/1715618848587-UqdRh01DXy.jpg?width=800)
高尾駅写真
![](https://assets.st-note.com/img/1715618848592-ZFrOLTTmI8.jpg?width=800)
ラーメンショップ西海
当時の学生は一度は店前を通ったことがあるだろう高尾駅前に位置したラーメン屋だった。
後、彼は東京ドームでアルバイトをしていました。
私も誘われてスタッフ登録しました。
パ・リーグの試合のスタッフを何度かしました。
ある時に乙武洋匡が試合を観戦していました。
私はバッティングフォームの研究をしながら働いていたので不真面目なスタッフだったと思います。
![](https://assets.st-note.com/img/1715623093475-HmYnbnbd73.jpg?width=800)
彼は中央大学の学生だった。
九州の実家には亀が住んでいると何かを仄めかすように語りだした。
それは自宅の庭に池があるという意味だろうと思った。
かなり裕福な家柄の子息かもしれない。
彼とは山形県米沢市の自動車免許合宿で出会い上杉鷹山公の邸宅を大雪の中で一緒に見学したり温泉宿の無人の大浴場でスイミングを競ったりした。
なかなか面白い体験だった。
![](https://assets.st-note.com/img/1715467130214-dEU3slhG4u.jpg?width=800)
私は拓殖大学学生だった。
聖蹟桜ヶ丘駅周辺に招待された時に河川敷でやった野球です。
ここが聖蹟桜ヶ丘駅周辺であって近藤喜文監督の唯一のジブリ作品「耳をすませば」のアニメ聖地でありました。
そしてここは日本アニメーションの聖地でもあったのです。
![](https://assets.st-note.com/img/1715623523811-GNCgaXmFnX.jpg?width=800)
大雪の中、山形県米沢市の上杉鷹山公邸宅に於いて
左端(私)は拓殖大学学生、真中(聖蹟桜ヶ丘駅周辺在住)は中央大学学生、右端(アイドルマニア)は中央大学学生
自動車学校のサービスで送り迎えをして貰えました。
初めての大雪が印象深かったです。
SONY
「聖宮崎駿と鈴木敏夫(※高畑勲)のあり方(スタジオジブリ)」は「聖井深大と盛田昭夫のあり方(SONY)」と同義となっています。
こういった「羊頭狗肉」が「SONY」にもあったからです。
ただ「SONY」の場合には明らかに創業者社長を聖井深大が務めていました。
しかし「SONYの神格化」もコンフィデンスマン(倒錯性の支配)を示しています。
それに対して「SONYの企業理念」に「神とことば」が齎されていると私は感じています。
「SONYの科学的思考」とは「神とことば」への「確信性の確保」であり「悔い改めと隣人愛」を示しています。
それは聖井深大によって齎されたと私は想像しています。
ただ「盛田昭夫の神格化」が起こりコンフィデンスマン(倒錯性の支配)として「SONYのカルト思考」を招いてしまった。
「SONYのカルト思考」とは「ヤンキーの神格化」と同義であり「盛田昭夫の神格化」からコンフィデンスマン(倒錯性の支配)の「信用の捏造」をしているのです。
スタジオジブリと聖宮崎駿
「スタジオジブリ」の場合には飽く迄聖宮崎駿は「芸術家」としてあります。
又、鈴木敏夫(※高畑勲)は多くの後ろ盾を持ったことで「スタジオジブリの代表」を務めることができたのです。
「スタジオジブリ」とは「聖宮崎駿のアトリエ」とされていましたが聖宮崎駿とは従業員の一人の立場でしかなかったのです。
「スタジオジブリ」とは「聖宮崎駿の個人アトリア」ではなかった。
この現実が「スタジオジブリの神格化」を招いている。
「スタジオジブリの科学的思考」は聖宮崎駿作品に限定されている。
他の作品はどう転んでも「スタジオジブリのカルト思考」となってしまうことで魅力を欠落してしまうのです。
その現実が聖宮崎駿以外のスタッフが「スタジオジブリのカルト思考」であることを示している。
そのことから「スタジオジブリの神格化」は「ヤンキーの神格化」と同義と見做されます。
「スタジオジブリの神格化」もコンフィデンスマン(倒錯性の支配)を示しているのです。
ここで重要なことはオマージュ(尊敬)が「聖宮崎駿のペルソナ」にだけ集まっていくことです。
これは「スタジオジブリの神格化」ではなく「聖宮崎駿信仰のサクラメント」の大切さを証明しています。
何故なら「聖宮崎駿信仰のサクラメント」が「誠実と真実」の在り処なのです。
それに対する「信仰弾圧」が「スタジオジブリの神格化」となるだろう「カンヌ映画祭」の「名誉パルムドール」の受賞となったのです。
「カンヌ映画祭」とは「信仰弾圧」を示しています。
「功労賞」なら「スタジオジブリの神格化」ではなく「聖宮崎駿信仰のサクラメント」へ贈るべきなのです。
それが「芸術家」へのオマージュ(尊敬)であるからです。
私は「カンヌ映画祭」に「きな臭さ」を感じます。
これは「聖宮崎駿信仰のサクラメント」の対する「信仰弾圧」と言えます。
「スタジオジブリの神格化」とはコンフィデンスマン(倒錯性の支配)を示しています。
それは「明けの明星、暁の子」であり「堕天使ルシファーの召喚」なのです。
そういう意味で「スタジオジブリの神格化」とは「北野武の神格化」と同義なのです。
フランス人(ヨーロッパ)は日本人に対して何か恨みがあるのでしょうか?
フランス人は親切ごかしで気持ちの悪い「信仰弾圧」を日本人に仕掛けてきます。
そういった「信仰弾圧」とは「嫌らしさフルスロットル」なのです。
「神とことば」への「確信性の確保」とは「誠実と真実」を示している。
そして「誠実と真実」を「羊頭狗肉」とする「倒錯性の支配」とは「特殊詐欺(コンフィデンスマン)」を示している。
コンフィデンスマン(倒錯性の支配)とは「神格化」によって捏造される「信用」によっています。
ただそういった「信用」は「信仰弾圧」によって可能となります。
「坂本龍一の神格化」のキャンペーンとは「嫌らしさフルスロットル」なのです。
○羊頭(ようとう)を掲げて狗肉(くにく)を売る
《「無門関」六則から》羊の頭を看板に出し、実際には犬の肉を売る。外見と内容が違うこと、見せかけが立派でも実質がそれに伴わないことのたとえ。
羊頭▵狗肉
(ヨウトウクニク)
羊の頭を表の看板に出しながら、実は犬の肉を売る。見せかけだけりっぱで、実際がそれに一致しないことのたとえ。『無門関』に「懸羊頭売狗肉(ヨウトウをかけてクニクをうる)」とあるのに基づく。
Cónfidence―Màn
—n.
[The ~] 『ペテン師』 ⦅Herman Melville の諷刺小説 The Confidence―Man: His Masquerade (1857); Mississippi 川の蒸汽船 Fidèle 号に最初は聾唖の若者として乗り込んだペテン師が, 次々と仮装して乗客をだましていく⦆.
cónfidence màn〓
(取り込み)詐欺師,ぺてん師. (また⦅話⦆ con man)
◊[文学・著作物]The Confidence Man『信用詐欺師』H.Melville の小説(1857).
[1849.米語]
confidence man [trickster]/––[–]/
⦅英正式⦆詐欺師, ぺてん師(⦅俗⦆ con man, ⦅PC⦆ swindler, trickster).
confidence vote/––/
信任投票 (vote of ~).
最強のコンフィデンスマン(倒錯性の支配)の確信とは「自分の弱点・欠点を棚に上げて人を非難する人のこと」なのです。
「自分の弱点・欠点を棚に上げて人を非難する人のこと」とは「信用の捏造」により最強のコンフィデンスマン(倒錯性の支配)を誕生させます。
それは「悪魔の子」であり「明けの明星、暁の子」です。
それは自分を棚に上げて他者を攻撃する最高悪サタンを意味しています。
最強のコンフィデンスマン(倒錯性の支配)とは最高悪サタンだったのです。
※テレビコメンテーターは最高悪サタンの典型であり最強のコンフィデンスマン(倒錯性の支配)です。
Sa・tan [séitn]〓
―n.
1 (キリスト教で)サタン,悪魔(▶the devil の固有名詞);悪魔のような人間:Satan reproving sin 罪を責める悪魔(自分の弱点・欠点を棚に上げて人を非難する人のこと):〓
2 〖軍事〗 セイタン:旧ソ連の ICBM の NATO コード名.
[900年以前. 中期英語,古期英語<後期ラテン語<ギリシャ語 Satân,Satán<ヘブライ語 śātān 敵]
![](https://assets.st-note.com/img/1714175098437-5PeeDETQUM.jpg?width=800)
科学的思考とエピステーメー
「神とことば」への「確信性の確保」は「科学的思考」となっています。
間違いだと示されれば須らく受け入れることは「科学的思考」の根幹だと言えます。
「科学的思考」の根幹とは「悔い改めと隣人愛」と同義と言えます。
「カルト思考」とは「科学的思考」を拒否したあり方です。
間違いだと示されても絶対に受け入れないことは「カルト思考」の根幹と言える。
「カルト思考」には「確信の捏造」(倒錯)だけが存在し「科学的思考」が存在していないのです。
「カルト思考」には「エピステーメー」とされた「確信の捏造」(倒錯)が存在するだけで「神とことば」を受肉する「科学的思考」が存在していないのです。
そのような「エピステーメー」を「ドクサ」と言います。
scientific theory
科学的理論(検証し潜在的に反証しうる理論.反証または反駁できない場合,その理論の信用度は高まるが証明されたとはみなされない).
かがく‐てき【科学的】 クワ‥
物事を実証的・論理的・体系的に考えるさま。また、思考が事実にもとづき、合理的・原理的に体系づけられているさま。学問的。
かがくてき‐ほうほう【科学的方法】 クワ‥ハウハフ
科学的な認識に到達するために必要な実証的・論理的な研究法。
ポッパー 1902‐94
Karl Raimund Popper
ウィーン生れのイギリスの哲学者,思想家。ウィーン大学に学んだが師 M. シュリックの主宰するウィーン学団の論理実証主義を批判し,処女作《探求の論理》(1934,英語増補版《科学的発見の論理》1958)で反証主義を唱え,その後の科学哲学の発展に大きな影響を与えた。ナチスを逃れてニュージーランドに亡命し,20世紀における社会思想史の最大傑作の一つと評される《開かれた社会とその敵》(1945)を書き,プラトン,ヘーゲル,マルクスの批判を通じて全体主義と権威主義を論駁(ろんばく)するとともに,民主主義に再検討を加え科学的社会変革論として漸次的社会工学piecemeal social engineering を主張した。1945年イギリスに帰化し,ロンドン大学の教授となり,65年にはナイトの爵位(サーの称号)を授与された。批判的合理主義の立場をとる彼の科学方法論は,J. C. エクルズ,J. L. モノ,K. Z. ローレンツなどノーベル賞学者たちに支持されている。自伝《果てしなき探求》(1974)がある。
森 博
はんしょう‐かのうせい【反証可能性】
(falsifiability)〔哲〕ポパーが科学と非科学との境界設定の基準としてあげた特性。科学理論は常に反証に対して開かれた暫定的仮説としての性格をもち、反証不可能な非科学(ドグマ)と区別されるというもの。
エピステメ
epistēmē
科学的知識,職業的専門的知識,知識一般をさすが,哲学上の用語としては,実践的知識(フロネーシス)に対して理論的知識,あるいは感性に基づく臆見(→ドクサ)に対して真なる知識をいう。ドクサとエピステメの区別はすでにパルメニデスに見出されるが,それをさらに明白に区別したのはプラトンであり,彼はエピステメとエイドス(→形相)を密接に関連させつつ,ドクサとアイステタ(感性的にとらえられたもの)に対立させることによって,真なる知識の位相を認識論的,存在論的に明らかにした。アリストテレスにおいては,必然的永遠的なものを対象とする認識能力をいう。
cult (kŭlt)〓
[L. cultus, an honoring, adoration].祭儀,礼拝形式,祈祷療法(教義または宗教的な教えに基づく体系化された信仰および儀式.従順な献身的な信者,指導者の非現実的な理想化,個人的な欲望や目的の放棄および伝統的な社会価値観の排除などの特徴がある).
ドクサ
doxa
「臆見」を意味するギリシア語。⇨エピステメの対立概念。低次の認識を意味する語としてドクサを初めて使ったのはクセノファネスであるが,永遠不変の存在についての真なる確証に対して,感覚に基づくドクサを立てたのはパルメニデスである。プラトンは後者の思想をうけて,真実在についての知識(エピステメ)と感覚的事象を対象とするドクサを認識論的存在論的に峻別,さらにドクサを感覚的個物に対する確証と感覚的個物の似像に対するエイカシアに区別した。アリストテレスはこれに対して存在論的区別を退け,エピステメを一般者ないし必然的なものについての判断とし,ドクサを感覚的個物にかかわるものとしている。エピクロス派では感覚そのものは真と認めるが,感覚に近い自発的な精神作用であるドクサには感覚の明証性の限界を踏越えて誤謬の可能性があるとしている。
ただ「科学的思考」から「神とことば」への「確信性の確保」は齎されます。
その意味するところとは「エピステーメー」を「科学的思考」によって見い出して行くことから「真の確信」が齎されるということです。
ここで分かるように「エピステーメー」とは「科学的思考」のことを示しています。
「科学的思考」がないならば「神とことば」への「確信性の確保」は「無理」ということになります。
そうなると「エピステーメー」も「無理」なのです。
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三対神徳と建築
三対神徳は信徳・望徳・愛徳を示し、神学者達は「信徳は精神的建物の土台を作り、望徳はそれを建て、愛徳は屋根をつける」と各役割を説明している。
例えば「安藤忠雄の建築」の代表作「住吉の長屋」は名建築として有名です。
私は東京工科専門学校建築科の1年時に女性教員から手書きの設計授業を受けていました。
その先生は唐突に「住吉の長屋」について呟きました。
その呟きは安藤忠雄が「住吉の長屋」について「天との対話」だと自ら評しているというものでした。
「住吉の長屋」とは部屋以外に屋根のない建築作品であって、そのように風雨に晒されることを安藤忠雄は「天との対話」と評したと思われます。
ただシンプルに評して「安藤忠雄の建築」とは「建築」に対する「倒錯性の支配」でしかないと感じます。
「安藤忠雄の建築」とは三対神徳に対する「倒錯性の支配」を示していると思われます。
「信徳は精神的建物の土台を作り、望徳はそれを建て、愛徳は屋根をつける」という最重要概念に対する「倒錯性の支配」は「黒ミサの儀式」となっているのです。
こういった「黒ミサの儀式」は現代における「信用の捏造」を術とした「ヲタク芸術」と同義でありコンフィデンスマン(倒錯性の支配)となっています。
これは「完全なブラックマジック」なのです。
安藤忠雄さんが主張する「人生は人間力が勝負」とはコンフィデンスマン(倒錯性の支配)を示しています。
これは「コンフィデンスマン(倒錯性の支配)の勝負」を示していて「羊頭狗肉の商売事」と同義なのです。
「羊頭狗肉の商売事」とは「エピステーメーの建築」を掲げながら「ドクサの建築」を売りつけることを示しています。
まさに「安藤忠雄の建築」の正体です。(笑)
「安藤忠雄の建築」には「エピステーメー」が存在していない
「無理を超越する」をコンセプトとした「安藤忠雄の建築」とは「無理」を「無理」に超越して行くことを示しています。
「無理」を「無理」に超越して行くとは「神格化」を意味していました。
そういった認識に「科学的思考」が存在していないことは明白であり「カルト思考」を示しています。
「無理を超越する」とは「科学的思考」を強烈に拒否していく「カルト思考」を誇っているのです。
「安藤忠雄の建築」が如何に立派に見えてもそこに「神とことば」への「確信性の確保」は存在していないのです。
それは「エピステーメーの欠落」を示しています。
「科学的思考の欠落」によって「エピステーメーの成立」が無理となっているからです。
「科学的思考の欠落」とは「どこまで行っても馬鹿は馬鹿」なのです。
又は「何処まで言っても白々しいは白々しい」なのです。
それらは茶番劇であり八百長ということです。
茶番劇や八百長とは「迫真の演技」ですが「エピステーメーの建築」ではなく「ドクサの建築」となっています。
「ドクサの建築」とは「安藤忠雄の神格化」を示していた。
「エピステーメーの成立」は安藤忠雄にとってどうでもよかったのです。
安藤忠雄は「スター(信徳)の学者」ではなかったのです。
コンフィデンスマン(倒錯性の支配)の「迫真の演技」とは「科学的思考の拒否」を命じているのです。
これはオウム真理教のマインドコントロールと同義と言えます。
ただそのマインドコントロールの構造をきちんと説明する「テレビコメンテーター」は一人もいませんでした。
「テレビコメンテーター」とは「誠実と真実」を装っています。
しかし「テレビコメンテーター」もマインドコントロールに関するインフォームド・コンセントを絶対に拒否しました。
何故なら「テレビコメンテーター」もコンフィデンスマン(倒錯性の支配)の「迫真の演技」だからです。
「迫真の演技」とは「神格化」をアジテーションしていきます。
コンフィデンスマン(倒錯性の支配)が自らの正体を晒していく筈がありません。
それが「オウム真理教事件報道」の異様さの一つだったのです。
そういう意味で「オウム真理教事件」と「安藤忠雄の建築」はそっくりなのです。
何故なら彼らはコンフィデンスマン(倒錯性の支配)だからです。
「神格化」とは「偶像崇拝と呪術崇拝」の「非現実的な理想化」への崇拝であって「神とことば」への「確信性の確保」を冒涜していく「嫌らしさフルスロットル」の姿だったのです。
「安藤忠雄の建築」とは「エピステーメー」を羊肉とし「ドクサ」を狗肉とする「羊頭狗肉の商売事」なのです。
安藤忠雄とはコンフィデンスマン(倒錯性の支配)であって「人生は人間力が勝負」と同義なのです。
「安藤忠雄の建築」とは「科学的思考」を拒否して成立する「カルト思考」によっています。
安藤忠雄とはオウム真理教教祖の麻原彰晃(松本智津夫)と同義なのです。
「安藤忠雄の建築」とは「ドクサの建築」なのです。
「神とことば」への「確信性の確保」に対する「信仰弾圧」とは「強権政治」によってなされます。
それはまさに「スーパーゼネコン」のあり方と同義です。
「日本の強権政治」によって「スーパーゼネコン」の「羊頭狗肉」は可能となり安藤忠雄という「バフォメットの建築家」が「スター(綺羅星)」のごとく登場していると言えます。
きら‐ぼし【˟綺羅星・˟煌星】
《「綺羅、星の如し」からできた語》きらきらと光り輝く無数の星。地位の高い人や明るいものが多く並ぶようすのたとえ。「―のごとく並ぶ各国の元首」
ただ「スター(綺羅星)」に「神とことば」への「確信性の確保」はあり得ません。
それは「スター(信徳)」からの堕天を示しているからです。
「スター(綺羅星)」とは「明けの明星、暁の子」なのです。
「カルト思考の建築」とは「エピステーメーの建築」ではなく「ドクサの建築」となっています。
「科学的思考の建築」が「エピステーメーの建築」だからです。
同様に「安藤忠雄の建築」とは「エピステーメーの建築」ではなく「ドクサの建築」だったのです。
安藤忠雄は東京大学の教授を務めましたが「ドクサの建築」を講義したと言えます。
一言で評して安藤忠雄とは最も愚かな「スター(綺羅星)の大学教授」だったのです。
何故なら大学生に「ブラックマジック」を教授していたからです。
又、「エピステーメーの建築」を講義することは「スター(綺羅星)の大学教授」のイマーゴ(理想の面子)となっています。
しかしそういった「スター(綺羅星)の大学教授」のイマーゴ(理想の面子)とは「羊頭狗肉」のあり方と同義です。
だから「スター(綺羅星)の大学教授」のイマーゴ(理想の面子)には価値がありません。
そもそもイマーゴ(理想の面子)とはコンフィデンスマン(倒錯性の支配)だからです。
「スター(信徳)の学者」のイマーゴ(神の似姿)を見い出していくことが大切なのです。
それは大学生に「ホワイトマジック」を教授することを示しています。
「ホワイトマジック」によって「文化芸術」は形成され守護されます。
ただ「スター(信徳)の学者」は「エピステーメーの建築」であり、一方で「スター(綺羅星)の大学教授」は「ドクサの建築」であると言えます。
「エピステーメーの建築」とは「文化芸術」となります。
「スター(信徳)の学者」こそが「文化人」であり「芸術家」なのです。
「スター(綺羅星)の大学教授」の正体とは旧約聖書「イザヤ書」の一文に記されています。
「どうしてお前は天から落ちたのか、明けの明星、暁の子よ」とは旧約聖書「イザヤ書」の一文であり「スター(綺羅星)の大学教授」の正体を端的に示しています。
それは「神とことば」に反逆した「神格化」でした。
この旧約聖書「イザヤ書」の一文は堕天使ルシファーの「嫌らしさフルスロットル」を見事に示しています。
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一方で「スター(信徳)の学者」とはタロットカード17番「スター」でありカトリック神学の「信徳」と同義なのです。
タロットカード17番「スター」とは「希望」を示しているのです。
![](https://assets.st-note.com/img/1713720223344-MKwmIzHdvo.jpg?width=800)
タロットカード2番(THE HIGH PRIESTESS)は「愛徳」を示している。
タロットカード5番(THE HIEROPHANT)は「望徳」を示している。
タロットカード17番(THE STAR)は「信徳」を示している。
そういう意味で安藤忠雄とは「スター(信徳)の学者」ではなく「スター(綺羅星)の大学教授」に相応しかったのでしょう。
安藤忠雄とは天才的コンフィデンスマン(倒錯性の支配)だったのです。
ただこういった天才の存在とは日本建築業界が担った建設ブームにより誕生した「暁の子」と言えます。
「暁の子」とは「スター(綺羅星)」だったのです。
天才の存在とは「暁の子」を示していた。
だから「スター(綺羅星)」とは「明けの明星、暁の子」の堕天使ルシファーなのです。
イマーゴ(神の似姿)とロゴス(恵みと真理)
「神とことば」への「確信性の確保」と「倒錯性の支配」による「非現実的な理想化」の違いはイマーゴ(神の似姿)の有無にあります。
「神とことば」とは「イマーゴ(神の似姿)とロゴス(恵みと真理)」です。
「イマーゴ(神の似姿)とロゴス(恵みと真理)」への「確信性の確保」とは「誠実と真実」のあり方を示しています。
「倒錯性の支配」という「世界支配」
一方で「倒錯性の支配」とは「確信の捏造」(倒錯)による「世界支配」を示しています。
しかしその「確信の捏造」(倒錯)による「世界支配」とは「偶像崇拝と呪術崇拝」の「非現実的な理想化」への崇拝です。
「偶像崇拝と呪術崇拝」の「非現実的な理想化」への崇拝がアジテーションする「確信の捏造」(倒錯)とは「倒錯性の支配」のことなのです。
こういった「倒錯性の確信」とは「ドクサ」を言うのです。
叡智と愚民政策
しかし「神とことば」への「確信性の確保」は「イマーゴ(神の似姿)とロゴス(恵みと真理)」を「至上命令」とします。
「神とことば」への「確信性の確保」とは「叡智」を言うのです。
一方で「倒錯性の支配」とは「神とことば」への「確信性の確保」を「偶像崇拝と呪術崇拝」の「非現実的な理想化」への崇拝に堕落させることで「他者」を「愚民」として容易くコントロールしていくのです。
それは愚民政策と呼ばれます。
愚民政策に於いて「羊頭狗肉」は容易くなされます。
「羊頭狗肉」とは「バフォメットの偶像崇拝」を示しています。
「バフォメットの偶像崇拝」とは「神格化」を示しています。
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タロットカード15番「THE DEVIL」
聖宮崎駿と庵野秀明監督
「イマーゴ(神の似姿)とロゴス(恵みと真理)」の至上命令は「神の王国の到来」を示し、愚民政策は「人の王国の統治」を示している。
このことについて判り易い好例を一つ挙げるとすれば聖宮崎駿とは「イマーゴ(神の似姿)とロゴス(恵みと真理)」への「確信性の確保」から芸術作品を形成しています。
だから聖宮崎駿とは「芸術家」なのです。
「芸術家」とは「神のエレクト」なのです。
一方で庵野秀明監督とは「倒錯性の支配」に対して「点数稼ぎ」をしていきます。
庵野秀明監督は「点数稼ぎ」のために「倒錯性の確信」をアジテーションし「信用の捏造」を術とした「ヲタク芸術」を制作していくのです。
庵野秀明監督は「倒錯性の支配」における「点数稼ぎ」をしているのです。
それは「人のエリート階級」を形成しています。
「人のエリート階級」とは「神格化」だった。
そういった「倒錯性の確信」(ヲタク芸術)とは「偶像崇拝と呪術崇拝」の「非現実的な理想化」への崇拝であり「バフォメットの偶像崇拝」と同義なのです。
聖宮崎駿の「芸術作品」は神に愛されます。
一方で庵野秀明監督の「信用の捏造」を術とした「ヲタク芸術」は人に愛されます。
ただ神に愛されない人には価値が全く無いと言えます。
そして神に愛される人こそ価値のある人物と言えるのです。
だから「信用の捏造」を術とした「ヲタク芸術」を愛する人は神に愛されないでしょう。
何故なら「信用の捏造」を術とした「ヲタク芸術」とは神を倒錯していく冒涜だからです。
それ故に「信用の捏造」を術とした「ヲタク芸術」を愛する人を「神の敵対者」と言うのです。
二つのマニア
「神とことば」は「コミュニケーション」であり「芸術」です。
それはスター(信徳)です。
げいじゅつ【芸術】
art; Kunst
本来的には⇨技術と同義で,ものを制作する技術能力をいったが,今日では他人と分ち合えるような美的な物体,環境,経験をつくりだす人間の創造活動,あるいはその活動による成果をいう。芸術という言葉は,利用する媒体や作品の形態によって伝統的に分類される数多くの表現様式の一つを示すこともある。したがって,絵画,彫刻,映画,音楽,舞踊,文学をはじめとする多くの審美的な表現様式をそれぞれ芸術と呼ぶことも,全体として芸術と呼ぶこともできる。これは一方では自然の被造物と,他方では技術や知識による産物と異なる。自然における創造は自発的であり,また技術や知識による創造は概念的であるのに対し,芸術はいわば直観的である。芸術の根源,すなわち芸術創造の根源には諸説があり,たとえば想像力,遊戯衝動,模倣衝動,表出衝動などさまざまに分類されている。
芸術は伝統的に文芸と美術とに分類される。文芸は言語や理論による表現技術で,美術は純粋な美の追求をより重視するものである。さまざまな表現様式,たとえば陶芸,建築,金属細工,広告などは,美の追求と実用的な目的を兼ねている。芸術は,純粋に美を追求するものと,単純に実用性を求めるものと異なる2つの目的の間に位置すると考えられる。この2つの目的の対立は,芸術家と職人という関連した用語にも反映されている。職人は実用性にかなり重点をおくと理解されているが,これは厳格な体系ではない。一つの芸術様式のなかでも,動機が大きく異なる場合もある。陶工や織工は実用的であると同時に美しい作品をつくるかもしれないし,賛美される以外に目的のない作品をつくる可能性もある。
芸術に用いられるもう一つの伝統的な分類方法に,文学(詩,戯曲,小説など),視覚芸術(絵画,彫刻など),グラフィック・デザイン(広告,ポスター,パッケージなど),造形芸術(彫刻など),装飾芸術(服飾,装身具,家具,壁画など),舞台芸術(演劇,舞踊,音楽など),音楽(作曲),建築(しばしば室内装飾を含む)などがある。また,芸術の存在様式が空間的であるか,時間的であるか,あるいはその媒体が何であるかによってもさまざまに分類される。近代では芸術媒体(メディア)の多様化により,この傾向はますます拡大される傾向にあり,さらに技術のすさまじい発展は(古代と異なった意味ではあるが)芸術と技術との和解をはかっているようにもみえる。芸術現象を解明する学問として,⇨芸術学および⇨美学がある。
「神とことば」に対する反骨精神を有している「エンターテイメント」とは「ヤンキーの神格化」を生成します。
それはスター(綺羅星)です。
それはカルトの定義の一つである「非現実的な理想化」の典型的なあり方です。
一つ目のマニアについて・・・
「神とことば」への「確信性の確保」のあり方です。
何故なら「神とことば」への「確信性の確保」は「神とことば」を至上命令としているからです。
このような至上命令とは「コミュニケーション」を意味しています。
そのような「神とことば」への「確信性の確保」は「マニア」を示している。
「マニア」とは「芸術の根幹」として存在する。
一つ目の「マニア」とは「神的霊感」を意味しているのです。
この人は殉教者(確信性の確保)であり芸術家と言えます。
※一つ目の「マニア」で有名なのはフィンセント・ファン・ゴッホです。
![](https://assets.st-note.com/img/1713736698551-rODJka7Ms3.jpg?width=800)
二つ目のマニアについて・・・
その一方で「倒錯性の支配」を「カリスマ」と確信することで「信用の捏造」を術とした「ヲタク芸術」が存在している。
何故なら「信用の捏造」を術とした「ヲタク芸術」とは「人の王国の統治」のための愚民政策であるからです。
「信用の捏造」を術とした「ヲタク芸術」とは「羊頭狗肉」と言えます。
それは「信用の捏造」を術とした「ヲタク芸術」が「バフォメットの偶像崇拝」であることを示しています。
「確信の捏造」(倒錯)によって「カリスマ」は「倒錯性の支配」を誇っていくことができる。
このような「倒錯性の支配」とは「アジテーション」(人工林)を意味しています。
これが「倒錯性の支配」を誇っていく「マニア」だったのです。
「マニア」とはコンフィデンスマン(倒錯性の支配)の「信用の捏造」でした。
残念なことに「倒錯性の支配」を誇っていくあり方は「文化社会」に於いて「最大の禁忌」となっています。
何故ならそれは「黒ミサの儀式」であって「文化破壊」を引き起こすことを意味しているからです。
勿論、「信用の捏造」によって「文化社会」に大混乱が引き起こされます。
「信用の捏造」を術とした「ヲタク芸術」とは「最大の禁忌」を犯すことで「文化社会」を破壊していると見做せます。
二つ目の「マニア」とは「1つのことに熱中する人」の「躁うつ病」のあり方を意味しているとも言えます。
この人はコンフィデンスマン(倒錯性の支配)であり精神病(狂気)と言えます。
コンフィデンスマン(倒錯性の支配)は「頭のおかしな人」(狂気)です。
「神とことば」に対する猛烈な反骨精神を有したエンターテイメントとは「ヤンキーの神格化」によるスター(綺羅星)と同義なのです。
※二つ目の「マニア」には米津玄師さんや庵野秀明さん等の有名人が存在しています。
en・ter・tain・ment [èntərtéinmənt]〓
―n.
1 楽しみ,気晴らし,娯楽.
▶しばしば instruction と対比される:〓
2 楽しませるもの,(特に)余興,演芸:〓
3 もてなし,接待,ごちそう,サービス:〓
4 娯楽読み物(コミック,冒険小説など).
5 (意見などを)考慮すること;(疑念を)抱くこと.
6 ⦅廃⦆ 職;給与.
[1531]
エンターテインメント
entertainment
楽しませてくれるもの。普通は芝居,演芸,音楽などの催し物をいうが,文芸用語としては娯楽性の高い読み物,通俗小説という意味で用いる。 1960年代,中間小説雑誌の創刊が相次ぎ,純文学と大衆小説との境界があいまいになるにつれ,この種の小説が大量に書かれるようになった。現在,各社の文庫本の中の多くを占めている。対義語はシーリアス・ノヴェル serious novel(本格小説)。遠藤周作,北杜夫,筒井康隆などは,明らかにこの2つの系統を書き分けている。
マニア
(1)mania「狂気」の意のギリシア語。 entheos(神的霊感を受けている),enthousiasmos(神的霊感)と密接な連関をもつプラトン哲学の主要概念で,病人の狂気とは異なる神の贈り物としての神的狂気をいう。マニアは有限的存在,死すべき存在としての人間に日常性,時間性の軛を断って永遠的なるもの(価値,イデア)と出会う超越的な力を与える。神によりマニアに与えられたものとして mantikē(予言術),oiōnistikē(占い術),mousikē(ムーサの神にかかわる文芸,技芸),erōtikē(エロスにかかわる術)があげられる。
(2)一般に,1つのことに熱中する人をさす。(3)⇨躁うつ病のこと。
きょうき【狂気】
mania
狂気は人間の精神病理学的現象として隔離ないし治療の対象として考えられる。他方,古代ギリシア以来,狂気は創造性との関係において重視されてきている。プラトンは神によって授けられた狂気はよきもののなかでも最大のよきものであるといっている。この意味における狂気は天才の創造の秘密をいうものであり,健全な精神からの逸脱としての単なる異常 insanityからは区別される。天才と精神病との関係は近代では C.ロンブローゾをはじめ J.ランゲ,アイヒバウム,E.クレッチマーらによって学問的,体系的に考察されるにいたり,また狂気と想像力との関係は W.ディルタイ,T.リボーなどを経て,ヤスパース,サルトル,G.バシュラール,M.フーコーなどによって考察されている。
そううつびょう【躁うつ病】
manic-depressive psychosis
感情障害を主症状とし,周期的経過をとり,のちに人格障害を残さないことを特徴とする精神病で,統合失調症とともに二大内因性精神病といわれる。循環精神病ともいう。⇨感情が高揚し,意欲は亢進し,思考が飛躍する躁病と,反対にふさぎこむ⇨うつ病(→うつ状態)という2方向の病的感情が,日常生活からは明らかに区別される病期として交互に現れ,経過後には完全にもとの人格に戻る。発現頻度は全人口の 0.4%程度で,うつ病相だけが表れる型がかなり多い。
![](https://assets.st-note.com/img/1712975556193-sT8CjBV7FR.jpg?width=800)
コンフィデンスマン(倒錯性の支配)とは「最高悪崇拝」だった!
Fair is Foul, and Foul is Fair.
「神とことば」への「確信性の確保」は「偶像崇拝と呪術崇拝」の「非現実的な理想化」への崇拝とされ、そして「偶像崇拝と呪術崇拝」の「非現実的な理想化」への崇拝は「神とことば」への「確信性の確保」とされる。
「カルト思考」とは「確信の捏造」(倒錯)に拘り抜くことで「科学的思考」を拒否したあり方を言う。
「神とことば」への「確信性の確保」とは「科学的思考」によって齎されるのです。
「確信の捏造」(倒錯)による「非現実的な理想化」に拘り抜くことと「神とことば」への「確信性の確保」にこだわり抜くこととは全く違うことは明白です。
「確信の捏造」(倒錯)による「非現実的な理想化」と「神とことば」への「確信性の確保」は「似て非なるもの」としてコンフィデンスマン(倒錯性の支配)に利用されます。
「確信の捏造」(倒錯)が判明であるならば須らく撤回していくことは潔いあり方です。
そういった「神とことば」への「確信性の確保」とは「科学的思考」を意味しています。
ただ飽く迄それが「確信の捏造」(倒錯)に拘り抜く姿勢なら「科学的思考」を拒否する「カルト思考」だと断定されます。
「Fair is Foul, and Foul is Fair.」 は「神とことば」への「確信性の確保」を「偶像崇拝と呪術崇拝」から「非現実的な理想化」への崇拝に堕落させることで他者の「確信の捏造」(倒錯)を支配していくコンフィデンスマン(倒錯性の支配)を指し示しています。
「カルト思考」とは「科学的思考」の拒否を意味している。
コンフィデンスマン(倒錯性)とは「倒錯性」を確信することであり「黒ミサの儀式」だった。
コンフィデンスマン(倒錯性の支配)とは「神とことば」に対して穢いつばを吐きつけるあり方であって「イマーゴ(神の似姿)とロゴス(恵みと真理)」を決して受肉することはなかった。
コンフィデンスマン(倒錯性の支配)とは「全て擬い物」であり「特殊詐欺」を意味していました。
それは「ギルティ」が示す「悪魔の烙印」です。
「カルト思考」とは「非現実的な理想化」を讃える「バフォメットの偶像崇拝」と同義なのです。
Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent.
「イノセント」がコンフィデンスマン(倒錯性の支配)となることは出来ないし、コンフィデンスマン(倒錯性の支配)とは「イノセント」になることは出来ない。
一方で「神とことば」への「真実と誠実」によって「神とことば」への「確信性の確保」はあり得る。
「神の王国の到来」への「確信犯」とは「殉教者」を意味している。
「神の王国の到来」への殉教者(確信性の確保)が「イノセント」であるのは当然であった。
殉教者(確信性の確保)とは「神とことば」への「確信性の確保」のことであって「芸術の根幹」を示していた。
コンフィデンスマン(倒錯性の支配)とは文字通りの「ギルティ」でしかなかったのです。
かくしんはん【確信犯】
Überzeugungstat; Gewissenstat
宗教的教義や政治的信念,道徳的確信に基づいて行われる犯罪であり,社会の変動期に政治犯罪として表われることが多い。確信犯人は,自己の行動が現行の法秩序に違反するという自覚はもちながら,より高い次元の法の理念を実現しようとする点で,犯罪動機を抑止する反対動機の形成が期待できないところに特徴がある。したがって,刑罰の威嚇力や行刑による改善効果が疑問視され,一般の犯罪者とは違った特別処遇の必要性が説かれてきている。
かくしん‐はん【確信犯】
①道徳的・宗教的または政治的確信に基づいて行われる犯罪。思想犯・政治犯・国事犯などに見られる。
②俗に、それが悪いことと知りつつ、あえて行う行為。
じゅんきょう【殉教】
martyrium
一般には,宗教上の信仰のゆえに迫害を受けて死ぬこと。広く主義のために死ぬ場合にも用いる。キリスト教会,特にカトリックではこれに明瞭な意味を与え重視する。キリスト教では,殉教者の原語 martyrはもともとあかしを立てる人の意で,イエスの生涯と復活の証人として使徒たちをさしたが,その後2世紀なかば頃から自己の信仰を真理として宣明し,迫害に対し信仰を死守した者の呼称に転化。4世紀初めに信仰の自由を得るまで,古代教会はおびただしい殉教者を出した。特にディオクレチアヌス帝の迫害下においてその数が多い。日本において 16~17世紀のキリシタンの歴史は信徒の殉教の血に染まっている。カトリックでは厳密には信仰ないし一つの徳のために生命を失った者で教会から殉教者と認められたものをさした。古代教会では殉教者に厚い尊敬が払われ,その命日には殉教者の名,殉教の時と場所,受難物語などが公に読上げられ,記念ミサが行われた。殉教者の墓上に礼拝堂や聖堂を建て,そこでミサを行う慣習があり,その祝日の典礼色は赤(血の象徴)。殉教者は普通聖人に列せられる。プロテスタントでは殉教者を教会で公認する規定はない。殉教に関する文献には,初代教会の各殉教者の生涯を記した殉教者殉難録,プロテスタント迫害史の殉教者伝があり,殉教者一覧記録としてはローマ教会殉教暦(354),カルタゴ殉教暦(505),ヒエロニムス殉教録(5世紀中頃)がある。
こういった「神とことば」への「確信性の確保」とは「イノセント」を示していた。
一方で「ギルティ」とは「神とことば」への「確信性の確保」を倒錯させることを示し、それと同時に「イノセント」を倒錯させるあり方でした。
「倒錯性」とは「確信の捏造」(倒錯)による「非現実的な理想化」に拘り抜き「科学的思考」を拒否したあり方と言えました。
そういう意味でコンフィデンスマン(倒錯性の支配)とは「アンチサイエンス」であって「アンチキリスト」と同義と言えます。
一方で殉教者(確信性の確保)とは「キリスト者」と同義でした。
「イノセント」を「ギルティ」と見做すことは「ギルティ」だった。
「ギルティ」を「イノセント」と見做すことは「ギルティ」だった。
そして「ギルティ」とは単にコンフィデンスマン(倒錯性の支配)を示していました。
コンフィデンスマン(倒錯性の支配)とは「神とことば」への「確信性の確保」を「偶像崇拝と呪術崇拝」の「非現実的な理想化」への崇拝に堕落させることで他者の「確信の捏造」(倒錯)を支配していく「ギルティ」を示していました。
何故ならば「神とことば」への「確信性の確保」を「偶像崇拝と呪術崇拝」の「非現実的な理想化」への崇拝に扇動することは明らかに「神とことば」に対する「敵対者」として存在しているからです。
それは「最高悪サタン」を示し「最大のギルティ」と言えるものでした。
※「最高悪サタン」とは「明けの明星、暁の子」であって「堕天使ルシファー」でした。
そういった「政治思想」とは通称「愚民政策」と言われています。
「愚民政策」とは「羊頭狗肉」であり「バフォメットの偶像崇拝」を示しています。
それは「科学的思考」を一切拒否して「愚劣」を扇動していくあり方でした。
そういった「愚劣」とは聖織田信長が殲滅を図った「一向宗」と同義なのです。
そして「最高悪崇拝」を示している。
![](https://assets.st-note.com/img/1712969322598-GOfUhudB1T.jpg?width=800)
殉教者(確信性の確保)とは「最高善信仰」だった!
But Fair is Fair, and Foul is Foul.
しかし「神とことば」への「確信性の確保」は「神とことば」への「確信性の確保」とされ、そして「偶像崇拝と呪術崇拝」の「非現実的な理想化」への崇拝は「偶像崇拝と呪術崇拝」の「非現実的な理想化」への崇拝とされる。
このセンテンスは「神とことば」への「真実と誠実」を確保する「高度な精神的姿勢ユーモア」を示している。
「高度な精神的姿勢ユーモア」とは「科学的思考」を示している。
コンフィデンスマン(倒錯性の支配)に対して「神とことば」への「確信性の確保」を持つ「キリスト教神学」とは「科学的思考」と同義であったのです。
それは「啓蒙」であって「ルネッサンスとヒューマニズム」(トーマの心臓)でありました。
![](https://assets.st-note.com/img/1713551204724-hj2iag6JP9.jpg?width=800)
ぼくは ほぼ半年のあいだずっと考え続けていた
ぼくの生と死と それからひとりの友人について
ぼくは成熟しただけの子どもだ ということはじゅうぶんわかっているし
だから この少年の時としての愛が
性もなく正体もわからないなにか透明なものに向かって
投げだされるのだということも知っている。
これは単純なカケなぞじゃない
それから ぼくが彼を愛したことが問題なのじゃない
彼がぼくを愛さなければならないのだ
どうしても
いま彼は死んでいるも同然だ
そして彼を生かすために
ぼくはぼくのからだが打ちくずれるのなんか なんとも思わない
人は二度死ぬという まず自己の死 そしてのち 友人に忘れ去られることの死
それなら永遠に
ぼくには二度目の死はないのだ(彼は死んでもぼくを忘れまい)
そうして
ぼくはずっと生きている
彼の目の上に
コンフィデンスマン(倒錯性の支配)とは「確信の捏造」(倒錯)に拘り抜き「科学的思考」を一切拒否していく。
それは「科学的思考」に対して「カルト思考」を意味していました。
「神とことば」とは「イマーゴ(神の似姿)とロゴス(恵みと真理)」であって「本物」と認知されます。
「本物」とは「神とことば」への「確信性の確保」であって「イノセント」を示している。
「本物」とは「神とことば」への「真実と誠実」を確保するあり方なのです。
それは「科学的思考」と同義です。
「全て擬い物」とは「神とことば」への「確信性の確保」から「偶像崇拝と呪術崇拝」の「非現実的な理想化」への崇拝に堕落させることで他者の「確信の捏造」(倒錯)を支配していくコンフィデンスマン(倒錯性)を示していました。
「カルト思考」とは「確信の捏造」(倒錯)に拘り抜くことで「科学的思考」を拒否していくのです。
「カルト思考」とは「愚劣」なのです。
「愚劣」とは聖織田信長が殲滅を図った「一向宗」と同義なのです。
But Innocent is Innocent, and Guilty is Guilty.
「イノセント」とは「神とことば」への「確信性の確保」を示しています。
それは「神の王国の到来」への「確信犯」であり「殉教者」を示していました。
そういった「神の王国の到来」への殉教者(確信性の確保)とは「イノセント」なのです。
一方でコンフィデンスマン(倒錯性の支配)とは「神とことば」を倒錯させる「ギルティ」を示していた。
「イノセント」を「イノセント」と見做すことは「イノセント」だった。
「ギルティ」を「ギルティ」と見做すことは「イノセント」だった。
そして「イノセント」とは単に「真実と誠実」を確保するあり方を示している。
「真実と誠実」は「科学的思考」から齎されます。
又、「真実と誠実」を確保するあり方とは「メシア」の存在を黙示している。
「メシア」とは殉教者(確信性の確保)を救済していく存在です。
それが「神とことば」への「確信性の確保」を持つ「キリスト教神学」のあり方でした。
コンフィデンスマン(倒錯性の支配)とは「神とことば」への「確信性の確保」を「偶像崇拝と呪術崇拝」の「非現実的な理想化」への崇拝に堕落させることで他者の「確信の捏造」(倒錯)を支配していく「ギルティ」なのです。
それは「ギルティ」という「悪魔の烙印」でした。
「悪魔の烙印」とは「神とことば」への「確信性の確保」を否定した「エニグマ」となっています。
エニグマ〖enigma〗
謎。謎めいた言葉。
e・nig・ma [əníɡmə]〓
―n. (pl. e・nig・mas,e・nig・ma・ta[~tə])
1 なぞ,不可解な出来事[状況].⇨PUZZLE〓:〓
2 なぞの人,正体のつかめぬもの:〓
3 (なぞめいた)言葉,質問,絵;なぞなぞ.
4 ⦅E―⦆ エニグマ:1920年代初期にドイツで開発された暗号機械;当初は民間用に製造されたが,第二次世界大戦中ドイツ軍や枢軸国軍に幅広く使用された.
◊[音楽]Enigma『なぞ』Elgar の変奏曲作品36番(1898).
[1539.<ラテン語 aenigma なぞ<ギリシャ語 aínigma なぞ(aînos「寓話(ぐうわ)」の派生語 ainíssesthai「なぞめいた言葉で話す」より)]
「エニグマ」とは「科学的思考」を確保する「神とことば」への「確信性の確保」に対する一切の拒否でした。
「エニグマ」は「カルト思考」の産物なのです。
それは「愚劣」を意味していました。
一方で「メシア」が齎すものとは通称「啓蒙」と言われます。
「啓蒙」とは「科学的思考」を示している。
それは「最高善信仰」でした。
愛を込めて Soma Oishi.
「ルネッサンスとヒューマニズム」(トーマの心臓)
あなたは永遠です。
Your forever friend Soma Oishi
friend [frénd]
[中期英語 friend,frend,古期英語 frēond 友,恋人,親族〔もとは frēogan(⇀FREE)の現在分詞;ゴート語 frijōn「愛する」と同語源〕;ドイツ語 Freund と同語源]
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