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【カトリック信仰】鎌ヶ谷市を歩く with Cats. @第2回スリランカフェスティバルin鎌ヶ谷 etc.(2023年5月21日撮影)

宗磨の日記風(フォトレポート)

"Innocent is Guilty, and Guilty is Innocent. But Innocent is Innocent, and Guilty is Guilty."

すべて2023年5月21日(日曜日)撮影の写真です。
撮影者は私個人であり同伴者はいません。
使用デジタルカメラはRICOH G600という現場用写真機です。
所謂建設現場や工事現場で使用されるステディーで堅牢なカメラです。
建築物を正確に撮影でき、又何らかの現場写真や証拠写真作成にも向いていると思います。
しかしカメラの機種としては時代遅れであり1000円ぐらいでヤフオクで購入しました。
バッテリーを別に買ったので2500円ぐらいのカメラです。
それが私の愛機です。

私が名古屋から千葉に引っ越してきて在住していた船橋グリーンハイツで起こった知人の自殺事件(1989年12月18日)

一九八九年十二月十九日(火曜日)
新聞休刊日(12月第3日曜日『1989年新設』)の二日後の毎日新聞千葉県欄火曜日朝刊

マンション屋上から飛び降り 
船橋・女子中生自殺十八日午前八時十五分ごろ、船橋市緑台(通称・船橋グリーンハイツ)二の十一階建てマンション北側のコンクリート通路上に、制服、コート姿の女子中学生が倒れて死んでいるのを、同ハイツ管理事務所の職員(七五)が見つけ、一一〇番通報した。
船橋西署の調べによると、この女子中学生は同市内の中学二年、A子さん(一四)。同マンション北側の非常階段を登った屋上にA子さんの紺色のスクールバックがあり、バックの中から両親と友人五人にあてた遺書二通がみつかった。遺書には友人関係についての悩みが記されており、同署はA子さんがこれを苦に屋上から三一・二メートル下の通路に飛び降り自殺したらしい。

「7」はカトリック

今日の朝の予定では千葉県立図書館へ行って1989年12月19日(月)の毎日新聞社「千葉欄」をマイクロフィルムで閲覧しコピーサービスを利用しようと考えていた。
そこには知人の自殺事件の記事と秋元病院の秋元豊医院長の記事が掲載されているからです。
それは私が転居した1990年3月の前後の住所が関わってくる。
自殺事件は船橋グリーンハイツで起こった。
そして引越し先は秋元病院から歩いて10秒ほどのところである。
毎日新聞の示す奇妙な所在地の一致が私の眼を引いたのです。
その確認をするために私は当時の毎日新聞千葉欄を手に入れようと考えていたのです。
しかし何故か今日は行く気がしなくなったのです。

「7」はカトリック

自宅(1990年3月高校卒業より)から徒歩10秒に位置する秋元病院の創設者は秋元豊氏

「悩むのは決して無駄にならないよ」。つまづく子供たちに、秋元はいつもそう声をかける

ちば人国記 医師編 7 秋元豊 鎌ケ谷・秋元病院長
鉄格子のない精神病院
地域社会とネットワーク作り

サヤエンドウ。すうっとスジをむくと横一列につややかな緑の豆が顔を出す。「家族みたいに見えるでしょう。ひととき保護して、また(社会へ)はじけていく。この病院のトレードマークです」
鎌ケ谷市初富の秋元病院は昭和六十一年、日本で初めて「家族病棟」を開設した。登校拒否、シンナー中毒、拒食症・・・・・・挫折した子どもたちが、家族とともに入院する。ここでは患者同士や、病院の職員もまた、家族の一員という考えに立つ。「心の病は、医者や薬だけが治すのではなく、失われた心の通い合いを取り戻すことから始まる」。それが精神科医・秋元豊(五二)の理念である。
秋元は思春期に心を病んだ経験を持っている。昭和一二年、東京都港区生まれ。細菌学者だった父は戦中に死亡し、一家は杉並区に移った。ただ一人の男子として、母菊枝(七八)と姉二人の愛情を一身に受けて育つ。秋元の膳だけ尾頭つきがのり、ズボンは女三人が交代でアイロンがけしてくれた。
「だんだん僕は男としてどう生きたらいいのか、分からなくなっていたのです」。区立宮前中時代から人と話すのが嫌になり、えたいの知れない劣等感にさいなまれた。陸上部では風を切って走っているときだけ”心の闇”を忘れられた。重苦しさは都立高へ進んでからも続いた。
片親だから就職口もないだろうと、医学部を志望するが、千葉大、東京医科歯科大と、ことごとく落ちて二浪する。一人で悶々(もんもん)とする秋元を救ったのが、古本屋で見つけた精神分析学者フロイトの書。「人間には自分でコントロールできない部分がある」。
精神医学との出会いだった。
二十七歳で岐阜県立医科大医学部を卒業、一年のインターン終了後、都内世田谷区の自衛隊中央病院に勤める。六年間、脳外科のメスをふるうが「どうしても精神科にひかれる気持ちを捨てきれなかった」。だが官僚組織では希望はかなわない。週に何回か千葉県内の民間精神病院にアルバイトに出かけ、外来診療を続けた。
高度経済成長期のひずみで、失業者が山谷にあふれていた時代。アルコール中毒がサラリーマンや主婦にも浸透し、大きな社会問題になっていた。秋元は根気強い治療を行ったが、家に返せば患者はまた酒に口をつけた。
そんなある日、酒におぼれていた四十代の患者がスッキリとした顔で診療室を訪れた。「先生、オレ酒やめたよ。”断酒会”に入ったんだ。先生も入らないか」。禁酒を勧める地域の自助グループが、いつの間にか彼を立ち直らせていたのだ。
ショックだった。「僕は医者としてどこか思い上がっていたのではないか」。血圧や肝機能のデータでは患者を説得できない。アル中を疾患としか見ていなかった失敗に気付いた。医療技術の効果は体に表れるが、地域や家族の力は心に表れる。老人の痴呆(ちほう)や子供の非行の問題も、そこに行きつくことが分かった。
五十二年、「診療所のような精神科を」と、松戸市に千葉県内で初の外来だけの東京神経科クリニックを開業する。が医師会仲間の反応は「精神科はそんな生やさしいものじゃない。第一町なかで通院させるなんて迷惑じゃないか」と冷ややかだった。
心の診療は問診に時間がかかるため、一日の外来も十人程度。団地の主婦のノイローゼが多かった。
仕事に行く夫を見送るだけの生活。子供が親離れするころ、心にぽっかり穴があく。「生活全体から見直さなきゃだめだ。内科も歯科もある国民宿舎のような病院をつくろう」。五十五年夏、秋元病院の創設である。
今、その病院に全国各地から、何かにつまずいた子どもたちがやってくる。金属バットを振り回して荒れる中学生や、受験を前にふさぎ込む高校生の気持ちが、秋元にはよく分かる。ヒステリックに病院へ引っ張ってくる母親、無関心な父親。子供を送り届けて帰ろうとする両親に秋元は言う。「息子さんを苦しめているのは、お父さん、お母さんにも問題があるんですよ」
鉄格子のない精神病院で、秋元は地域社会とのネットワーク作りに取り組む。「日本は何か問題が起こると、原因だけをとり除いて安心する風潮があります。医療も教育問題も家族の中の誰かを悪者にして失敗している。家族療法は家族全体を”輪”としてとらえるのです」。シンナー中毒を克服した青年が入院中の子供たちを激励に来たり、地域の自助グループが病院内で勉強会を開く。秋元の夢が、ゆっくりと根を張りつつある。(敬称略、つづく)

一九八九年十二月一九日(火曜日) 朝刊千葉県欄 毎日新聞社

私が千葉県立船橋旭高校在学中に秋元病院前の新興住宅地へ転居を決めたのは両親でした。
新築の一戸建てで建設中に抽選を経て購入に至ったようです。
抽選ですので他にも購入希望者がいたらしいのですが実際のところは知りません。
1989年12月18日(月)はまだ建設途中でしたが転居は決まっていたと思います。
自殺事件の発生時に秋元病院から徒歩10秒のこの場所に転居は決まっていた。
私はこの毎日新聞ちば欄にメッセージとコミュニケーションが存在しているように感じています。
それは知識(doxa)を廃棄することで確保され「信仰」を入れる場所に受肉するものです。
人はそれを「直観」と言いますが「符号一致」とも言えます。

「7」はカトリック

私は当初の予定を変更して初富駅の近くにある鎌ケ谷市立図書館へ自転車で向かいました。
船取線沿いにある市立図書館本館への通り道に鎌ヶ谷市イオンと鎌ヶ谷市役所は位置しています。
鎌ヶ谷イオンと鎌ヶ谷市役所は道を隔てて向かい合っています。
そこに何だかイベントが行われていることを見て取りました。
その時そう言えば「スリランカフェスチバル」の開催日だったと思い出したのです。

TBS秋沢淳子さんが鎌ケ谷に来たらしい!

そして家に帰ってからホームページで確認したところ元TBSアナウンサーの秋沢淳子さんが司会を務めると発表がありました。
しかし私は何も知らずイベント会場をカメラとリュックを背負って徘徊していました。
ステージも観ましたが秋沢淳子さんの姿は見当たらなかったな!
まーTBS秋沢淳子さんだって鎌ヶ谷に一日中いる訳ではないのだろうから会えなかったのは仕方がないだろうね!
結局TBS元アナウンサー秋沢淳子さんとの遭遇はなかったのです。

スリランカ
Sri Lanka
正式名称 スリランカ民主社会主義共和国 Sri Lankā Prajathanthrika Samajavadi Janarajaya。
面積 6万 5610km²。
人口 1987万 9000(2006推計)。
首都 ⇨スリジャヤワルデネプラコッテ(行政府所在地は⇨コロンボ)。
インド半島の南東,インド洋上の島国。旧称セイロン Ceylon。ポーク海峡とマンナール湾によりインド半島と隔てられる。長径 438km,最大幅 225kmの島で,インド亜大陸と同じ陸棚上に位置し,かつては陸続きであったとみられる。中南部にピドゥルタラガラ山(2524m)を最高峰とする山地があり,周辺に平野が開ける。年降水量 1300~5000mm。モンスーンの影響で山地の南西側に多く,北東部は乾燥地帯となる。古来⇨ベッダ族が狩猟生活をしていたが,前 550年頃インドから⇨シンハラ族が渡来,王国を築き,前3世紀頃の仏教の伝来とともに文明が栄えた。やがてインド南部から⇨タミル族も侵入,北部にタミル族の王国が築かれるなど諸王国が盛衰。 1505年ポルトガル人が到来,次第に支配権を確立したが 1602年オランダ,1795年イギリスが占領,1802年の⇨アミアンの和約で正式にイギリスの領有が決定。第2次世界大戦後シンハラ族による独立運動が高まり,1948年セイロンとして独立,イギリス連邦の一員となった。 1972年に共和国となり国名をスリランカ共和国と改称,さらに 1978年に現国名に改称した。古来シナモン,宝石,ビンロウジ(ビンロウの果実)の輸出が盛んであったが,1840年代はコーヒー,1880年代から茶,ゴムの生産が経済的支柱となり,コロンボは国際的寄港地として発展。現在は茶,宝石,ココナッツ製品が輸出の大半を占める。良質の黒鉛を産するほか石灰石,チタン,宝石類などの地下資源があるが豊かではない。工業は食品加工,繊維など軽工業の段階で,国家収入の半分以上は農業に頼る。このほか漁業も盛んで,観光にも力を入れている。住民の 70%以上がおもに仏教徒のシンハラ族,約 20%がヒンドゥー教徒のタミル族,約9%がイスラム教徒。人口は北部と南西部に集中。公用語はシンハラ語とタミル語。タミル族による反政府ゲリラ活動が絶えない。

『ブリタニカ国際大百科事典 電子辞書対応小項目版』 Britannica Japan Co., Ltd./ Encyclopaedia Britannica, Inc.

Sri Lanka [srìː láːŋkə,lǽŋkə,ʃrìː]〓
スリランカ(民主社会主義共和国)(Democratic Socialist Republic of Sri Lanka):インドの南方,インド洋上の島;英連邦に属する共和国;首都 Sri Jayawardanapura Kotte,旧首都 Colombo;1948年独立;人口17,240,000,面積65,610km².
▶旧称 Ceylon. アラビア語名 Serendip.
Srì Lán・kan―adj.,n.

『ランダムハウス英和大辞典(第2版)』 小学館
[シンハラ語で「光り輝く島」の意]

2023年5月21日(日曜日) 正午前

撮影者 Soma Oishi
鎌ヶ谷市役所駐車場

ライオンラガー

アラック(ココナッツの蒸留酒)

【アラックとは?】
アラック(Arrack)はココナッツを原料として作られるスリランカの蒸留酒。
ココナッツの甘い香りが特徴で、フルーティーな味わい
スリランカではストレートで飲まれることもあるが度数が高いので、ソーダやジンジャーエールで割ってもおいしい。
ロックにしてライムを絞りながら少しずつ飲むのもおすすめ。
スリランカのBarではアラックを使ったカクテル『アラック アタック(オレンジジュースやライムで割ったカクテル)』が提供される。

アラック説明文

イベント会場の出見世(スリランカ食)

セイロンティー(スリランカ人の店員さんが詳細に教えてくれた)

ブレンドされていたり茶葉の大きさで用途が分けられている。
細かい茶葉はミルクティーやチャイに向いている。
チャイは質の良くない茶葉を香辛料を加えて飲む飲料を言う。
所謂貧乏人(庶民)の飲み物なのです。
ハイソサエティーに縁のない私にはチャイが向いているだろう。
香辛料や香料、ハーブなどの組み合わせでセイロンティーは様々な商品が存在するのです。

Bar?(昼から酒を飲む人はあまりいなかった。)

移動式レストランらしい?

スリランカのクレープだった!(クレープと言えば「魔法の天使クリィミーマミ」の森沢優であろう)

ステージ(後ろに見えるのは鎌ケ谷イオン)

TBS秋沢淳子さんとの遭遇はなかった。

デコレートされた三輪車が置いてあった。

露座の釈迦如来仏 鎌ヶ谷大仏駅から徒歩一分

アメリカ雑貨屋さん(L.A. DEPO)

たぶん鎌ケ谷で最もおしゃれな店の一つだろう
私はアメリカ雑貨が好きである。
何故ならば私は拓殖大学外国語学部英米後学科卒業(2002年学位取得)が最終学歴であるからだ。
イギリス文化もアメリカ文化も両方とも学んだ。
イギリスはシェークスピアを研究したし、アメリカはフォークナーの「エミリーの薔薇」を英文読解授業でみんなで翻訳した。
その時に拓殖大学八王子キャンパスの図書館で「フォークナー全集」のコピーを取ったことを覚えている。
そのフォークナー全集の「エミリーの薔薇」のコピーを不要になった教科書を譲ってくれた女学生にお礼として進呈したことを覚えている。
その子は確か九州の方から来ていたと記憶している。

アメリカ雑貨屋での購入品

グアダルーペの聖母 330円(税込み363円)

今日のレポートは終了です。

不定期連載ですが続報もご期待ください!

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