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歩み出すため、「与えられたわたし」を受け取ろう。

けんせい|代筆屋さんの記事を読みました。

どうでもいいことをどうでもいいと思えると、自分の中のどうでもよくないに熱中できるようになるよなと。

どうでもいいことを、どうでもいいと思う。
それが「大事なことを大事にする」の出発点にもなるんだな、と感じさせてくれました。

そして、けんせいさんの記事は、以前読んだまた別の記事を浮かび上がらせてくれました。
mizuhoさんの記事です。

「持続可能なわたし」

この言葉、とても素敵じゃないですか?
僕は、素敵と感じました。
そして、考えてみたい問いにもなりました。


「持続可能なわたし」。
今の僕にとってそれは、
「流されることができるわたし」であること
のように思います。

「流されることができるわたし」。
それはどんなことでしょうか。

感情とか、「わたし」そのもの。
それは、「大きな何かに与えられたもの」のように感じます。
海が好きなわたしがいる。
海を見ると癒される。
「山よりも海が好きなわたし」で生まれてこよう、
そう願って生まれてきたから海が好きなんです、
という人、もしかしたらいるかもしれません。
僕自身は、自分の感情や価値観を生まれたとき、生まれる前から自分の意志で選択した、という感覚はありません。
好きなものを好きだと思うわたし。
それは、「そう思うわたしが与えられているんだ」という捉え方もあると思います。

海が好きなわたし。
はじめて海を見たときから好きな人もいれば、
あるときから好きになる人、
だんだんと好きになる人、
好きだったけれど嫌いになる人もいるかもしれません。

感情とか、「わたし」。
それは「大きな何か」に与えられたものであるとともに、
生きていくなかで、「他者や、せかいの響き」を受け取って変化していくものでもあるように思います。
感情とか、「わたし」。
それは、自分の内側からだけで生まれてくるものではなくて、
他者や、せかいから受け取ったものたちが自分に影響を与えていて、
そういうなかで生まれたり、変化したりするものなのだと思います。

「大きな何か」。「他者や、せかいの響き」。
そこから与えられたものを、受け取る。
「与えられたわたし」を受け取る、受け取り続ける。
それが、「流されることができるわたし」なのかな、と思っています。

そして、
「わたし」を受け取ることができたとき、自らの一歩を歩みだせる
そんな気がしています。

けんせいさんとmizuhoさんの記事を最初に引用させてもらいましたが、
どう繋がりがあるのか曖昧な記事になってしまいました。
ごめんなさい。
でも、お二人の記事を受け取ったからこそ、この記事を書けたのだと思います。
けんせいさん、mizuhoさん、ありがとうございます!

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