カテゴライズと決めつけ
このような話を聞いたことがあります。
宗教や肌の色でのカテゴライズがしにくい日本では、血液型でそれがなされているということです。
カテゴライズしたがる性質を持っていても、「カテゴライズされること」には拒否反応を示す。
それもまた人間ではないでしょうか。
「カテゴライズされることのどこが嫌なのか?」と問われたら、皆さんはどう答えますか。
僕の場合、『同じカテゴリーに属す人は、同じ感覚を持っているという「決めつけ」が嫌だ』と感じているように思います。
と書きつつ、僕もそんな嫌なことを他者にしてしまうことがあったなと、先日気づきました。
詳細は割愛しますが、自分で勝手にカテゴライズして、同じカテゴリーにいる人に対して、「こういう感覚持ってるでしょ」「こういうところに敏感でしょ」と、勝手に相手に求めていた自分に気づいたんですね。
身勝手な話です。
『同じカテゴリーに属す人は、同じ感覚を持っているという「決めつけ」が嫌だ』と書きましたが、「カテゴライズ」と「決めつけ」は切り離して考えることができるのではないか、ということにも気づきました。
カテゴライズは、することもされることにも心地よさは感じないかもしれません。
それでも、無意識であったとしても、カテゴライズする・されることがある。
その時、それは「カテゴライズ」であって、「同じカテゴリーの人だから同じ感覚を持つはず」とか、「同じカテゴリーなのにこんなに感覚が違うなんておかしい」という感覚の話にまで繋げる必要はないのです。
確かに、同じところにカテゴライズされた人たちには、「傾向」みたいなものがあるかもしれません。
その傾向が顕著に表れる領域もあるかもしれません。
でも、「全てが同じ」なわけではありません。
「カテゴライズで傾向を知ろうとすることは、楽をしている」という見方をすることもできます。
楽をすることは、別に汚いことではありません。
ただ、全てが同じなわけではないし、傾向は傾向であると認識したうえで、『「その人」と向かい合うこと』が大事だな、と思います。
月曜日、お疲れ様でした。
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