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ニヒリズムと生きる意味の決着に関して

前からnoteの存在は知っていたけれど、正直Amazonレビューにしか備忘録としてしか書いていなかったことを、もっと積極的に読んでもらった方が良いとある人に言われたのもあって徐々に転載していこうと思う。

まずこの本は、ヴィクトール・E・フランクルが1978年に刊行したものであり、アメリカで講演活動に飛び回る中で書かれたという内容で、「夜と霧」(私のAmazonレビュー)で有名な彼にしては「現代的」な問題を扱っている。

それは戦後から30年経過し、日本でもバブル経済に突入し出し、アメリカでも豊かな社会を謳歌していた頃だ。
一方で、ニヒリズムや<生きる意味>を見失い、自殺者が増加し出した時期にある。
日本でも学生運動後に大きな<物語>の吸引力が無くなり、やがて高度成長期に入り、<生きる意味>や人生とは何かという問題を置いてきぼりにし、バブルが弾けて過労死やパワハラ問題が浮上したのも、経済的成長や企業の成長がイコール「幸福」の条件、であるかの様な幻想が崩壊したことだ。それに日本の現代でも自殺者は増加している。

この本を読む前に「 夜と霧 」は必ず読んでおくべきであり、フランクルのロゴセラピーの骨子を理解するならこの本まで手を出す必要はない。私もその本のレビューをAmazonに書いたので読んで欲しい。感想はここでは繰り返さない。何よりこの本で難解な「現象学」的な議論もあるので、専門的な内容についていけない人もいるだろう。私としては、この本を読んだことで逆にフランクルの哲学的「思想」の限界が見えたことだ。

特に「セックスの非人間化」の章にはどうしても無理がある。何より一対一の結婚「制度」に対して相対化せねばこの議論は不毛に陥ることは間違いない。ピルを使うことで男女の平等を持てると述べているが、明らかに間違いだ。重婚しようがハーレムであろうが、それでもパートナーの相互が真の意味で納得するならば良いのではないかと思う。それに昨今はLGBTの議論もあり、そもそも「古典」的な結婚観で議論を進めるのも危険である。

さらに現代で、DVやいじめが表面化している事実からも、当初は「責任」を持っていたとしても、子供を産み、子供を養い育てることに対する「苦悩」の解決には全くなり得てない。文化人類学、歴史学、民俗学の資料を読めばすぐにわかることだが、過去において「子殺し」は極めて平然と行われていたという事実が全く書かれていないことだ。

理由は、人類全般に渡って、中世から近世では「子殺し」は社会の中で秘匿されタブー視されていたからだ。日本でも水子地蔵がなぜこんなに多いのか。そして全世界での「神隠し」神話が何故多いのか。それは「無意識」的な社会習俗による行動で子供を捨て、殺害していたことの<事実>に他ならない。感染症による死亡率が高かったから逆に「病死」という隠蔽も容易かったのが本来なのだ(この辺を全面展開した議論はマーヴィン・ハリスの著書を参考にして欲しい)。避妊の方法が確立されていなかったことや、そして出産による死により、女性に多大なリスクを抱えるという意味で堕胎も当然の如く行われていたことだ。

この点でフランクルは宗教的な意味では評価されていたとしても、無神論者に対しては恐らく響かない内容がこの章にはあった。何より人類「だけ」が繁栄すべき時代はもう終わったと考えるべきだ。人類はどう考えても増え過ぎた。ならば、全世界の「環境破壊」への「責任」こそ取るべきだ。人類だけの種族繁栄をするのではなく、あらゆる生命を祝福して不条理な感染症に対しても、微生物なども嫌悪せずあらゆる生命の共栄共存こそ訴えるべき時期に入ったと考えた方が良いのではないか。コロナ禍ならば尚更そう考えるべきかと思う。

本音では私はフランクルの「 夜と霧 」を大変高く評価している。けれど、これと全く逆のシオランを読み続けた私(いずれはこのシオランの著書を紹介していくつもり)にはどうしても引っかかる「思い」が抜けきれないところがあった。しかし、この本で腹に落ちたところがある。
私が知る限り最悪主義のシオランを読んだ人で、自殺した人を聞いたことがない。理由は一周回って結局はシオランが言っていることと、フランクルの思想の根底が実は「同じ」だと気づいたからだ。

フランクルの思想やロゴセラピーの方法論には有効性が確実にあるけれど、補足事項が間違いなく必要であり、フランクルもその辺の述べ方が「紳士的」であるし、何より精神療法医であることから「書いてはいけない」ことをずけずけ述べられない「限界」があったのだろう。何より自らの思想でもって他者に介入出来ない「限界」こそフランクルの「立場の限界」なのだろう。

恐らくフランクルの思想の対極に位置しているシオランはこう述べる。
「生にはなんの意味もないという事実は、生きる理由の一つになる。唯一の理由にだってなる」


恐らくこれなど読めばニヒリズムの究極を述べている内容であるが、よく考えると死ぬべき理由も無いという事実にも繋がっていることが「判然とする」はずだ。生きるべき理由が無いならば死ぬべき理由も存在しないということであり、シオランがとにかく意地悪な断章が多いので、考えると中々厄介である。私も随分前から「無意識」にはこの断章に得心していたが、意識的に納得出来たのはフランクルの本を読んだおかげである。
フランクルは「生きる意味はユニークであるべきだ」とあらゆる所で述べていて、特にこの本ではそれを掘り下げて述べている。生きる意味は誰かから与えられるべきもので「断じて」あってはならず、取り換えの効くものでもありえず、ましてや墓の下まで持ち込んでも失われるものでもないとフランクルは述べる(私はそこまでは考えてないが、わからなくもない)。苦悩や絶望から真正面に向き合うことは、精神的な意味でかなり危険が伴うしおいそれとリスクを回避したくなる気持ちは多くの人が持って当然である。だからといって、現実や不条理が変わるわけではなく、その時点での本人の行動、その態度こそ毅然とし、矜持を持つことの大切さをフランクルは教える。

シオランは逆の方向から、ニヒリズムの究極を述べ、さらに暴走してニヒリズムに「甘える」人間たちの「甘さ」すら爆殺しているだけである。フランクルは直接的でありどちらかと言えば宗教者的であるが、シオランは意地悪な賢者の様だ。両者の根底では自らの「誇り」「態度」「行動」こそ大切にするという意味で繋がっている。違いとしては、人間に対する「責任」の取り方は対極している。

シオランは思想的にそれらを述べることには「失敗」している。それに、何よりシオランは慢性的に健康を害していた節がある。「責任」を取るという立場を取らなかったのは、自らの身体的事情によるものが大きい様だ。それに、「 告白と呪詛 」以後は、アルツハイマー型認知症に掛かっていたいたことが判明していて、最終的には過去に自分の書いた本の記憶すらわからなくなる状態になっている。
一方、フランクルはアウシュビッツ収容所から生き延び、人類の「責任」を一身に背負い続けることで、自らの生活態度や健康には相当に気を遣ったいた人なだけにこの差は大きい。

従って私自身が健康体なだけに、シオランに最終的に与することは出来なかったし、かといってフランクルの様に聖人の様な行動は合わない。正直言えばフランクルに「意識的に行動する」方法を教えてもらった恩恵は大きい。生きる意味など誰に定義することもなく、自分で「生きる意味」を納得することが生む恩恵は、フランクルが最も強く訴えることであるが、その意味ではこの本は必ずしも有効とは言えないところもある。

フランクルの生前では、まだ「時代」によってタブーとされていたのが性に関することが特にそうで、現代で言うLGBTなど最たるものである。当時はまだゲイ(ホモセクシャル)やレズビアンに関してもようやくジェンダーの議論が出始めた頃なので、フランクルの論旨は今では「古い」のだ。バイセクシャルに関してもボーボワールはどう考えてもレズビアン(もしくはバイセクシャル)なのであるが、「 第二の性〈1〉 」、「 第二の性〈2〉 」を書いたことで、その辺の本人の性意識への議論がタブー視され、本人の位置づけが全く置き去りにされている。現代なら、ボーボワールの顔写真を見ればそんなことはすぐに分かるのに(笑)。だからこそフランクルのこの本の「セックスの非人間化」の章は古いのだ。結婚観こそ正に「文化」なのだ。今はそれをはっきりさせる時期かと思う。

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