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局地的、俯瞰的な医療の意味

おはようございます、こんにちは、こんばんは、ただです。

「医療、特に日本において、医療は世の中を不幸にしているのではないか」
「医療の本質的な意味は何か」

学生時代、親友と車に乗りながら帰るすがら、芸術や映画、政治について話す他に、このことについて話してきました。
何年も、同じことを良く飽きなかったなとも思います。

そして医師になってしばらくたった今、同じようなトピックについて考えたこと、現時点での途中経過をまとめてみたいと思いました。
目的としては、人に見せる半分、自分の頭の中でフワフワしている思索をどうにかプリンくらいの硬さには留めようとするのが半分です。

今回の記事は幾分か誰かの気持ちを害してしまう可能性もあると思います。
また医師として未熟で、大して人を救う能力を持っていない若造が言う意見ではないのかもしれません。
けれども、腕のついた医師がそんなこと言うのはただの自己矛盾だとも思うのです。

・医者が固有の医者として出来ることは大して無い

「治る病人は医者が足を引っ張らない限り、ほとんど自然に治ってゆき、治らない病気はどう頑張ったところで治らない。(中略)マニュアルに若干の経験を加えて診断、治療をする。治る者は治り、治らない者は治らない。よほど鈍感な医者でない限り、自分が神でないことを知るのは早い。その後。神に近づこうとする医者と、
神という言葉で表現される大いなる自然の摂理に自分を含めた人間の予後をゆだねてしまう医者とに分かれる」

著 南木佳士  「医学生」 

僕の好きな作家の南木佳士さんはこう言います。僕は学生の頃にこの言葉に納得し、今でもこの言葉に同意します。
僕が治しているのではなく、現代のハコやカタチによって治る者は治るし、治らない者は治らないのは覆せない。紛れもない事実です。
無論、「自分」が患者の人生を変えるくらい医療で何かを出来ることあるかもしれません(恐らくそれも錯覚なのですが)が、数えるほどしかないでしょう。
そういうものが起きやすい場所、科もありまして、行けばドラマチックなことは多く、自分が治しているという自覚は起きやすいでしょうが、それはそのハコやカタチが機会を増やしたり、治したりしているのであって、そこにいる個人はほぼ代替可能です。
劇的に人生を変えることのない面白くない作業や、くだらない仕事が大半です。医療が神や魔術に近いと患者も医師も思っていたのはとうの昔の話です。

・では医師がやっている仕事とは何か?

これを定義するのは難しいですが、僕なりの定義はこうです。

①医学的正義:治療で病気を治す、和らげる
②個人的正義:患者個人の安心、願望
(ex,病気に対する漠然とした不安の解消、整形手術)
③社会的正義:診断、治療をすることが社会的に利益があり妥当
(ex,感染症の蔓延防止、必要十分な医療による適正医療費)

これらを最適化、最大化するようにコーディネートするのが医師の仕事だと思っています。現実問題、これらはトレードオフの関係になっていることがよくあります。
感染を蔓延させないために個人の自由を制限しなければいけませんし、患者の不安が強くて医療的に適正以上の投薬や治療をすることもあります(適切に説明、安心させられない医師の技量不足ですが)。
一般的には医者側は①を重視し、患者は②を重視します。
③は常時は大して重視されません、その場の医者と患者には関係ありませんから。いや、厳密に言えば関係は大いにありますが見えにくく、慢性的です。コロナのような未曾有の危機の場合には個人を強制するような社会的正義が(良い悪いかは別にして)大手を振って前面に出ていましたが、平時に起こっていることに関しては気づいていないか、気づいていても緊急性はないので対処しないのが普通です。

簡単に①を貫けるときは簡単ですが、それが難しいとき、どこに落としどころをつけるのか、全てをどこまで最大化できるかが医師の技量として大きなウェイトを占めると思って仕事をしています。

・実際問題、医療は(特に日本においては)世の中を不幸にしているのか?

幸不幸の概念は主観的であるので、結論答えは出ません。ただ、持続的に可能かと言われると恐らく今の状況では無理でしょう。
医療を行う対象は、当たり前ですが大半が高齢者です。医療が必要かと言われれば、僕個人は大半が要らないと思っています。必要なのは健康に生きれる時間と、人間として必要な時期に人生を終える尊厳です。そんなものはいわゆる「医療」では提供できません。
言い方を変えるならば、現在は①(医療側の全てを直すべきという幻想)と②(個人、その家族がただ生きる時間を伸ばしたいという無思考かつ根源的な欲求)が重視され、③(社会的に実際どこまでの介入が必要か)という議論がないがしろにされているということです。前述したとおり緊急性のない③はないがしろにされ、気づかぬうちに世の中に雲を立ち込める要因です。

ただ、そこを変えていくことは何重もの障壁があり、恐らく能動的には出来ないのだろうと思います。変わるとすれば、コロナの様にそれが重要かつ緊急になってしまったときです。
船に既に穴が開いているのは知っているけれでも、だれも沈み始めるまではそれを塞ごうとしないですし、気づいたときに大半の人間が出来ることは穴を塞ぐことではなく、可能な限り逃げて生き残ることなのでしょう。一握りの果敢な英雄だけがその状態に陥った時に行動を始めるのでしょう。
平時から動く英雄は歴史上聞いたことはありません。

そんなことを思うとき、昔読んだ本の一説を思い出します。

「国民の多くに覇気がなく、夥しい精神病予備軍を抱え、女は子供を産みたがらず、人口は減少の一途をたどり……だがみんなが豊かで、優しく、知的で、中々住みやすい国がしばらく地上に存続するだろう」

著 中島義道 「どうせ死んでしまうのに、なぜ今死んではいけないのか?」

そんな諦念を感じながら、生きるのも別に悪くはないです。
ただその状況の中で医療を行うことが欺瞞に思えてしまって、僕は極力③から逃げられる小児科になっているわけです。親の子に対する②は時折すごいものはありますが、それでも心情は理解、納得できます。
小児科である限り、何の解決にならなくてもその問題から目を背けることは出来ますから。

まだ未熟な僕には、何かを変える勇気も、強さも無いようです。いつか、その状況に「否!」と言って自分が行動する日、もしくはそんな誰かが現れる日は来るのでしょうか。
一生僕の頭からは消えないトピックだと思うので、これからも考えていきます。

皆さんも「私はこんな意見だ」というのがありましたらよかったら教えてください。
ここまで読んでくださりありがとうございました。では、また。

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