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蟹の身ばっか食べてたら、殻の出汁や蟹味噌の美味しさにはたどり着けない

おはようございます、こんにちは、こんばんは、多田です。

道を追求している料理人の方々ってすごいですよね。人間に根源的に不可欠な「食」というものに日々向き合って、各々の哲学的な境地まで落とし込んでいる料理人の方々を見ていると畏敬の念すら感じます

また美しく料理を彩る傍ら、食材を無駄にしないために、切り出した残りは煮込んで出汁にしたりなどその丁寧さにも心を動かされますよね。自分が料理するときは使い方や適切な保存方法が分からず捨ててしまうものが多いものですから。
そういう使い方って先人たちが試行錯誤して積み上げたもの、経験からきっと来ているのでしょうね。自分で一からそれを思いつくのは大変で、間違っているときもあるでしょうから。

そんな風に思いながらふと考えたことが今日の主題です。題名は適当に書きましたけど、要は
「物事を勉強するときに、他者や外の力を借りて効率よく習得するべきか、一から十まで自分で習得するよう努力するべきか」
という話です。

まず前提の結論として思うのは、「自分でやったほうが良いに決まっている」ということです。
例えば個人的な経験から言っても、経験したことのない病気を持つ患者の治療に対して、誰かに教えてもらいながら進めるのと、自分で逐一調べながら行うのでは後に自分の中に残る経験としては天と地の差があります。皆さん個人の経験でもそうではないでしょうか?

しかし、自分で試行錯誤するという行為には様々な弊害が付きまとうのは事実です。

一つとしては、間違う可能性が高いということです。
先の例でいえば、自分で調べたものに関しては高確率とは言わないまでも、現実的な臨床医学からズレていることもしばしばあります。現場では実際こうするっていう記述はあまり無いですからね。

またもう一つ、こちらが重要と思いますが、遠回りであるということです。
聞けば数分で分かることも、調べたら1日かかる可能性もあります。僕たちが不老不死であればそれでも構わないかもしれませんが、現実には命の蝋燭は刻々と溶けていきます。僕たちの生に与えられた時間は4000週間しかない訳です。

限りある人生を生きるということはーそれがどんなに最高の人生であってもー絶え間なく可能性に別れを告げる過程なのだ。

著 オリバー・バークマン 「限りある時間の使い方」

これが少なくとも賢者の石を持たない21世紀までの人間にとって絶対的な真理です。

だから自分で習熟し、深みに到達するという可能性を捨てて、妥協をするということが、他の力を借りて効率よく物事を習得するということなんだと思います。
蟹味噌や蟹の殻の出汁の味を知らないまま死んでいく。その可能性を自覚しながら過ぎ去る時を生きるしか、僕たちに選択肢は無いわけです。

なんだか人生論にまで風呂敷を広げてしまい、もう話をまとめられない予感しかしないですがそれでも続けます(笑)
だからこそ、わずかにしかない時間で、わずかな選択肢を選び取るしかない訳です。その取捨選択に必要なのが初っ端の方向設定だと思います。

どう設定するか、ということについては考えてみたのですが明瞭な答えは出ません……。決定する方法はいくらでもある(例えば価値観マップなど)のですが、もうその時点で誰かに与えられた何かを使って効率的にやっていますよね(笑)
ただ大切だと言えることとしては、どんなにありきたりで端から見て軽薄な結論に至ったとしても、自分の中で何回も反芻することだと思います。
誰かが作ったテクニックで自分の好むこと、好まざることを区別したとして、そこで出来上がったと満足するのではなく、自分の過去と照らし合わせて反芻していく。
それが蟹の身を食べ終わった後に、蟹味噌と蟹の出汁で雑炊をつくって最後の〆まで堪能しきるってことだと思います。

読書は自分で考えることの代わりにしかならない、自分の思索の手綱を他人にゆだねることだ

著 ショウペンハウエル 「読書について」

最後にこの文章を置いて終わります。読書に限らず、何かを他人から与えられるということは、それがどんなに優れていても、自分の浅い思索よりも劣るということを理解しておかなければいけないのかもしれません。
ショウペンハウエルの言葉を引用して終わるあたり、まだ僕自身、他人の思索に頼っているのかもしれませんが(笑)

ここまで読んでくださりありがとうございました。
また、今後も読んでいただければありがたいです。
ではでは!


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