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僕が小児科医になった理由

おはようございます、こんにちは、こんばんは、多田です。

今回は少し自分に踏み入った話をしようと思います。タイトルの通り、
「何故、自分が小児科医になったのか」
ということについて考えてみようと思いました。
これから医学部を目指す人たち、医学部に在籍して医師になろうとしている人たち、それ以外の沢山の人たちも、このちっぽけな若者の備忘録を読んでもらえると嬉しいです。

明解に言語化できるわけではないので、時系列でまとめてみようと思います。


医学生時代

東大に行くのもつまらなそうと斜に構え、何となく入った医学部。18歳という年齢はそのくらい調子に乗らないといけない時期だったのかもしれません。大学前半は蛇足なので省きます。

僕が何となく、小児科かなぁと思い始めたのは大学4、5年生の実習だったと思います。正直に言うと、当時たいして医者になりたいわけでもなく、まるで社会科見学のように医療を眺めて実習をしていました。

どの科をまわっても共感できる医師はおらず、違う道もありかもしれないなとぼんやりと思っていました。どう考えても老いた患者さんたちに過剰な医療を提供する正当な理由は僕には見つかりませんでした。

その点、産科と小児科だけはマクロな視点でも自分の中で存在意義を見出せていました。未来の種にどれだけお金も資源も費やしてもそれは正当なはずだから。
だから「実際は良いもんなんかね?」と斜に構えた気持ちで社会科見学をしに行きました。

体験して記憶に残るエピソードは二つです

・先天性疾患の患児

まず病棟に入院していた「18トリソミー」という染色体異常の児について。
疾患に関しては可能であれば調べてほしいのですが、患児の生命予後は長くは無いです。今、同じ疾患の患児を小児科医として見てそれを改めて実感しています。
大学4年生の頃の僕は「この患児にどこまで医療をするべきなのだろうか?」と疑問に思っていました。今でも同じようなことを周りに言われることもあります。
けれども、患児の病床に置かれた沢山の写真、横になり穏やかな顔をしている患児。それを見て僕の心に形容できない感情が生まれたことは確かでした。

・喧嘩した指導医について

今でもそいつが僕は嫌いです。発表の文字のフォントが老眼には見えないと言われ、字が滲むくらいの太さへと変更されたりと不満なことが続き、僕も反発の意を隠していませんでした。
そんな時、
「そういう態度は良いけど、そしたら発表は手伝わないからね」
と言われ、カチンときた僕は
「反抗できない上の立場からそういうこと言うの、大人としてどうかとおもいますけどね」
と返しました。
一触即発、完全なる冷戦を一か月繰り広げていました。
ただ、一番ムカついたのが「その指導医の外来はこれまで見たどの外来よりも上手かった」ことです。
子供は彼になつき、親は彼を信頼していました。
「性格の悪い奴ほど、仮面をかぶるのが上手いんだな」と悔しがりながら、こいつのことは越えたいなと当時思っていました。(因みに、本当に性格の悪い&器用な奴は外来が上手いです。特に小児科医は顕著)


研修医時代

「医療には意味があるのか」という命題に僕はまだ結論を出せていませんでした。けれども出せている人は誰もいないようにも思えました。というよりもそれに真剣に悩むようなことは皆にとって無駄な時間なようでした。

・蘇生する意味

そんな中でも患者は運ばれてきます。
心肺停止で運ばれてきた90歳の患者。DNAR(Do Not Attempt Resuscitation:事前の同意に基づいて蘇生処置をしないこと)が取れていないため心臓マッサージを交代で行います。

それは意味があるのか?
ここで蘇生しても、その後はどうなるのだろうか?
万が一にも助かるかもしれない。ただ、命は助かったとしても、意識は戻らず、管につながれ、そのまま月日が流れていく。その想像は妄想でも何でもなく、救命した場合の一番可能性の高いシナリオです。

僕の胸骨圧迫はそんな迷いのもと、100%の力だったとはとてもじゃないけど言えませんでした。

・お爺さんの最期

僕が研修医の最初に見た患者さんのことも記憶に残っています。昔は職人だったようで、結構頑固でした。嚥下機能の落ちたお爺さんは誤嚥性肺炎を繰り返し、施設に帰れると思った矢先に熱を出して延期になります。
「もう、点滴はいらない!」
そんなことを繰り返す中、お爺さんは怒ったようにそう言いました。
僕はその言葉に何も返せませんでした。「そんなこと言わずに治療した方が良いですよ」と心の底から言うことは出来ませんでした。
看護師が説得をしても点滴をしなくなったお爺さんは、嚥下も落ちており満足にご飯を食べることも難しく、すっと数日後にお亡くなりになりました。
それが良かったのか悪かったのかは今でも分かりませんが、お爺さんの無くなる前日の表情が忘れられません。
穏やかなようにも見えるし、後悔や寂しさが垣間見えるようにも思えました。

僕が、研修医の2年間を通して得た結論は
「高齢者に医療をする是非は、自分には白黒つけられない。ただ白黒つけられないことを仕事にすることは絶対に出来ない」
でした。
そうして学生の頃に体験した出来事も思い出し、消極的に小児科を選びました。


小児科専攻医として

そして僕は今、小児科医として働いています。そんな消極的な理由で小児科になった僕には「子供が好きだから」と言って苦しまずにそれを行動に移せている周りの皆が眩しいです。

けれども、そんな綺麗な感情だけでは解決できない小児科特有の沢山の問題もそこら中に転がっております。(ネグレクト、虐待、不登校、拒食症etc)

どんな処置も大人の三倍は人手が必要で、目まぐるしく過ぎる時間に任せて僕の判断も先送りになっています。
ここまで引っ張っておいて、結局小児科になった理由は表現できません。

ただ、ひとつだけ良かったなというエピソードがありました。

・負け戦の話

コロナ全盛期の時代、呼吸状態の落ちた子供を入院させるときの話です。
コロナ病棟に入院するにあたって、迅速な同意が取れない可能性があり、入院前に予想される同意を取っておく必要がありました。
最たるものに呼吸状態が悪化した患者に「人工呼吸器をつけるために気管挿管をするか否か」という同意です。

話を研修医時代に少し戻します。研修医の時にコロナ病棟を担当していて、高齢者が入院する際に取っていた同意が「気管挿管が必要になった場合は、救命措置をしない」という同意でした。
(これの是非は置いときますが、感染管理を厳重にしながら、人員も充分に確保できないまま、人工呼吸器管理を適切にするのは現実的に不可能でした)
この同意を取るとき、僕は無力感にいつも苛まれていました。自分の医療技術の未熟さにではなく、医療というものの敗北に対してです。そして予想通り、元々慢性的な病気を持っていて不安定な土台で生きていた患者は、コロナの侵襲で亡くなっていきます。

「誰かがしないといけないのは分かるけども、なんでこんな負け戦をしないといけないんだろう」

防護具を着て、汗だくになりながら、暗いコロナ病棟から見える明るい日差しと深緑の木を見てぼんやりと思っていました。

話を小児科に戻します。
同じ状況で入院になる子供の親に対して、僕はこう言いました。
「多分同意いらないと思うんですが、もし、人工呼吸器が必要になった場合は気管に管を入れる必要があるので同意を取らせていただきます」
医療の中で初めて自分の中で心情と言動が嘘偽りなく矛盾していないなと思える瞬間だと思いました。

そう思った日も明るい日差しと木々の深緑は変わりありませんでした。


これが僕のひねり出したこれまでの記憶です。思い出して整理しても、「何故なったか」を直接的に明示することはできませんでした。
これから先も、何で医師なったのか、小児科医になったのかの理由なんて分からないかもしれないし、必要ないのかもしれません。

ただ、
「ベストかは一生分からないけども、ベターではあるかな」

昨日生まれた新生児が目を閉じて、おしゃぶりを和やかに吸っているのを見て、そう思ったことは確かです。

ではでは、最後まで読んでくださりありがとうございました。
コメントなどしてくれるととても嬉しいです。

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