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戦争を知らない僕たちは

戦争には反対だ。

これは、信念とか正義とか、強い言葉が苦手な僕にしては珍しい、ささやかな主張だ。だから時々舌の上でこの主張を転がしてみる。だが、考えれば考えるほど、それは分が悪い主張のように思えてくる。

幸運にも(という無責任なことばしか僕は知らない)、日本は太平洋戦争以来大きな戦争を経験していない。僕にとっての戦争は、歴史の教科書に並んだ文字列と写真で、テレビの画面や映画のスクリーンを流れる映像で、掃き清められた護国神社の玉砂利だ。兵士あるいは捕虜としての果てしない行進も、近しい人との別離とその後に続く長い生活も、僕は知らない。
 だからこれから僕が語ることは、ものすごく見当違いで無責任なことなのかもしれない。戦争によって深いかなしみを負った人をさらに傷つけることになるかもしれない。おそらく僕に必要なことは、この緩い口をぎゅっと結んで、貝殻の奥から聞こえてくる暗い響きにじっと耳を澄ますことなのだろう。こんなくだらない文章なんか書いていないで、そうすべきなのだ。まったく、救い難いと自分で思う。




「たまご 1パック98円 おひとりさま1パック限り」

積み上げられた卵の山の中のひとつを素早く手に取って、僕は買い物かごに入れる。特売を知らせる掲示の紙いっぱいに、98という数字が赤色で大きく書かれている。購買欲を掻き立てる文字の色は、いつも決まって赤だ。例えば緑色の価格表記というものを、僕は見たことがない。
 卵に続いて、細切れ肉や、野菜や、缶詰をかごに放り込む。考えてみると、これらはみな、種々の命の成れの果てだ。綺麗にパックされている細切れ肉も、少し前まで、僕たちが知っている生きものの形をしていたはずなのだ。それが今では「食材」という命とは別の何かに変化してしまった。
 加工肉から流れ出た、少し粘り気のある液体を見て、命が多くの命の上に成り立っているということを、僕は無責任に思い出す。





赤壁には諸葛孔明の風が吹いている。カンナエではハンニバルのカルタゴ軍がローマ軍を包囲している。長篠では織田鉄砲隊が武田騎馬隊を圧倒している。
 歴史のページに刻まれたドラマティックな展開に、我々の心は高ぶる。その瞬間が本の中で、テレビで、映画で、ゲームで、何度も何度も繰り返され、語り継がれる。優れた戦術の賞味期限は長い。
 一方で、人の命の賞味期限は短い。多くの戦いで、多くの命が失われたはずだが、その重大さを適切に伝えるのは難しい。

「カンナエの戦いでは、カルタゴ軍の死傷者数6,000に対し、ローマ軍のそれは60,000に上った」

数字は時に残酷だ。その事実は何の真実も僕に伝えてくれない。


時間というフィルターは、戦争の血腥い臭いを濾しとってしまう。あとには僕らが手に取って弄べる程度のかたまりだけが残る。まるで加工肉みたいに。
 応仁の乱、関ヶ原の戦い、西南戦争。僕の後ろに、そんなたくさんの加工肉が並んでいる。でも、20世紀以降の戦争となると、少し様子が変わってくる。肉には少し大きめの血塊や毛皮の断片が付着している。微かだけれど、生きものの臭いもする。そして太平洋戦争となると、その臭いはもう少し強くなる。どうしてだろう。

理由の一つは、僕たちがその戦争の記憶を、少しずつでも引き継いでいるからではないだろうか。もちろん僕は太平洋戦争に参加していない。でも、いくつかの媒体を通して戦争の記憶に触れることで、ほんとうに、ほんの少しだけれど、その戦争を「自分たちの戦争」と捉え、その責任を自覚できるのではないかと思うのだ。傲慢な言い方をどうか許してほしいのだけど、太平洋戦争や、いま各地で起きている戦争は、ある文脈において、僕が起こした(あるいは起こしている)戦争なのだ。
 申し訳ないと思う。ごめんなさいと謝りたい気持ちだ。でもたぶん僕に求められているのは謝罪のことばじゃなくて、血の臭いを体に取り込んで、その記憶を引き継ぐことなのだろうと思う。


 5年ほど前の8月6日に、広島の平和記念公園に行った。暑い日だった。もちろん、1945年8月6日の広島を包んだ熱さと比べれば、恥ずかしくなる程度のちっぽけな暑さだ。それでも、僕の額や腋から、幾らかの汗が流れ落ちていった。僕は流れ出る汗を拭きながら、70年前の同じ場所の景色を想像した。惨めなくらいちっぽけで、効率の悪い記憶の引き継ぎ方だと思う。でも仕方がない。


「安らかに眠って下さい 過ちは 繰り返しませぬから」

平和公園の石碑にはそう刻まれている。素晴らしいことばだと思う。同時に、そのことばの重みを考えると、僕は思わず目を逸らしてしまいそうになる。でも恐らく、目を逸らした瞬間から、血の臭いは薄れていくのだ。

 村上春樹さんはカタルーニャのスピーチで、「非現実的な夢想家」たることの大切さを述べた。いつか国家や政府というシステムが、恒久的な平和に非現実的な夢物語というレッテルを貼って、自己都合で正当化した戦争を我々に強要する日がやってくるのかもしれない。そのとき僕は彼らに向けて大きく「ノー」と叫ぶことができるのだろうか。