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徒然草のリズムで

「仁和寺にある法師、年寄るまで、石清水を拝まざりければ、心うく覚えて…」

「神奈月のころ、栗栖野という所を過ぎて、ある山里にたづね入ることはべりしに…」

「高名の木登りといひしをのこ、人を掟てて、高き木に登せて梢を切らせしに…」


昔から吉田兼好の『徒然草』が好きで、少し前に読書会の課題図書として皆で読みました。

初めて『徒然草』を読んだのは国語の授業のときでした。軽妙な語りのリズムと鋭い視点が爽快で、子供心にも何か感じるところがありました。中学2年で扱う教材らしいのですが、当時習ったものは今でも誦じられます。控えめに言ってあまり熱心な生徒ではなかったのですが、学生の頃に学んだことって、意外に覚えているものですよね。


メビウスの輪のごとく終わりのない大人のお説教よりも、兼好さんの切れ味鋭い文章は、よほど多くのことを教えてくれました。
 例えば先述の「高名の木登り」の全文はこんな感じ。

高名の木登りといひしをのこ、人をおきてて、高き木にのぼせて梢を切らせしに、いと危く見えしほどは言ふ事もなくて、降るる時に、軒長(のきたけ)ばかりになりて、「あやまちすな。心して降りよ」と言葉をかけ侍りしを、「かばかりになりては、飛び降るるとも降りなん。如何にかくいふぞ」と申し侍りしかば、「その事に候。目くるめき、枝あやふきほどは、おのれが恐れ侍れば申さず。あやまちは、安き所になりて、必ず仕る事に候」といふ。

あやしき下臈なれども、聖人のいましめにかなへり。鞠も、かたき所を蹴出してのち、やすく思へば、必ず落つと侍るやらん。

(第109段)

ざっくり要約すると以下のような感じでしょうか。

① 木登りの名人が、弟子を木に登らせて枝を切らせていた。
② 名人は弟子が危険と思われる高いところにいるときには何も言わず、もう大丈夫と思われる低いところに下りてきたときに、「気をつけなさい」と声をかけた。
③ 疑問に思った兼好さんがわけを尋ねたところ、名人はこう答えた。「高いところでは本人も気をつけているから何も言いません。失敗は、必ず簡単なところで起こすものです」

なるほどねぇ、って感じです。

また、「木登り名人の話なんだけどね…」と一枚はさむことで、嫌味な感じが出ず、すんなり聞き入れられると思います。これが最後の蹴鞠の話だけだったら、「けっ、自分語りかよ。偉そうに…」となったかもしれません。


教訓めいた話だけでなく、こんなのもあります。

柳原の辺に、強盗法印と号する僧ありけり。たびたび強盗にあひたるゆゑに、この名をつけにけるとぞ。

(第46段)

「法印」とは僧侶の最高の位のこと。人々がこの気の毒な僧に「強盗法印」というあだ名をつけて、くすくす笑っている光景が目に浮かびます。
 説教くさい話が続くといささか疲れてくるのですが、こういう幕間みたいな小文が入ると、気持ちがリフレッシュします。この辺の構成も上手いです。
 それに、読んでいてなんとも心地のよいリズムです。この辺は好みの問題でしょうけど、私にとっては内容と同じくらい文体というものは重要です。漱石の『坊ちゃん』に出会ったときも驚きましたが、『徒然草』の文体も同じくらい衝撃的でした。
 でも、「強盗法印」なんてあだ名、絶対つけられたくないですよね…



ところで、徒然草といえば有名なのが次の序文でしょう。

つれづれなるままに、日くらし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。

(序段)

『徒然草』という作品名を覚えていなくても、この「つれづれなるままに…」というフレーズは覚えているという方も多いと思います。
 ですが、国語の授業でこの序段を習ったときに、何となく違和感というか、喉に小骨が引っかかった感じがありました。どうして「よしなし事を書きつく」って、「あやしうこそものぐるほし」い気持ちになるのだろう、と。
 私もこうやってnoteで下手な文章を書いたり、Twitterでくだらないツイートを呟いたりしていますが、書き終えたときはどちらかというと「あー、すっきりした」という感じで、「あやしうこそものぐるほしけれ」とは感じません。

crispな他の段と比較して、この段のもやもやした雰囲気は長年気になっていたのですが、中野孝次さんの『すらすら読める 徒然草』を読んですっきりしました。以下で引用します。

兼好が世を捨てて隠棲したのはもっと早く、三十一歳以前と考えられている。そして兼好が『徒然草』の冒頭で言っていることも、まさにモンテーニュと同じこのことにほかならない。そうやって己が心に正直に対していれば、その考えるところ、価値の置き方、物の判断の仕方が、世間並とまったくちがうようになるのは当然だ。世から見ればそれは狂おしいということにもなろう。

漫画『プラネテス』の中で、フィー・カーマイケルの叔父ロイは、人里を離れひとり森で暮らしています。人々はそんな彼を変人扱いします。ですが、バイオリンを弾いたり、魚を獲ったりして静かに暮らす叔父の姿に、幼いフィーは親しみを感じます。
 あるとき町で子供の失踪事件が起こり、ロイは誘拐の容疑者として噂されます。噂を信じた誰かが、ロイの住む家に火をつけ、彼の家は燃え上がります。炎に包まれた家を見ながら、ロイは普段の穏やかな顔からは想像できない怒りに満ちた表情でこう言います。

「どっちなんだ オレと この世界と 狂ってるのはどっちだ?」

兼好さんほど鋭くないし、ロイほど純真なわけでもありませんが、私にも彼らのように感じる瞬間があります。それでも、何とかこの世界と折り合いをつけてやっていかないといけません。そういう視点で『徒然草』の序段を読むと、「兼好さんのような人でも色々悩んで苦しんでいたんだなあ」と、少し救われる気がします。そして、『徒然草』がもっと好きになりました。



最後に、私が『徒然草』で一番好きな段を引用したいと思います。「死」は誰もが知っていて、誰も体験したことのないイベントです。私も人並みに死を恐れますが、これを読むと、自分ような小さな存在も、紛れもなく世界の一部なのだと、少し安心できます。

春暮れてのち夏になり、夏果てて秋の来るにはあらず。春はやがて夏の気をもよほし、夏よりすでに秋はかよひ、秋はすなはち寒くなり、十月は小春の天気、草も青くなり、梅もつぼみぬ。木の葉の落つるも、まづ落ちて芽ぐむにはあらず。下よりきざしつはるに堪へずして落つるなり。迎ふる気、下に設けたる故に、待ちとるついで甚だはやし。生・老・病・死の移り来たる事、また、これに過ぎたり。四季はなほ定まれるついであり。死期はついでを待たず。死は前よりしも来たらす。かねてうしろに迫れり。

(第155段・一部抜粋)

夜中に目が覚めて、つれづれなるままに、由無し事を長々と書きつくりました。最後まで読んでくださった方、ありがとうございました。

みなさんの好きな段はありますか?