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子をもつということ

なかなか周りに話しづらいことについて書いてみます。
独りよがりで、あまり気持ちのいい文章とは言えないと思います。また、性的マイノリティの方はご気分を害される内容かもしれません。
あるいは私は、単に赦しを請うているだけなのかもしれません。でもまあ、とりあえず考えていることを。
以下、本文です。

 妻と結婚して数ヶ月経ち、子について話し合うことも増えた。妻は一刻も早く子どもが欲しいと思っているようだが、私は自分の子をもつということがかなり怖い。未来の情勢に対して希望がもちにくいということもあるけれど、一番は、自分の遺伝子(の一部)を残すということに対する怖さがあるのだと思う。平たく言えば、ーかなり問題のあると思われるー 、自分のような人間が生まれてきたらどうしよう、という恐怖だ。
 例えば希死念慮。私は物心ついたときから、緩やかに「死にたい」と感じている。もちろん死に対する恐怖はある。ただそれは、死そのものに対する恐怖というより、死の前段階の、主に痛みに対する恐怖であり、死そのものについては憧憬があることを否定できない。だがもちろん、これは気軽に他人に話せることではないし、そういったものを抱えて生きるのは、少なくとも私にとってかなり辛い。もし子にこういう性質が遺伝したらと考えると、どうしても気がふさいでしまう。
 一方で、これは傲慢で危険な考えだとも思う。親の基本的責任とは、子が自立するまでの環境をある程度整えることであり、子の人格形成は原則として、子自身に責任と権利がある、とも思う。だいいち私自身、私の人格に関して親に責任があるとは全く考えていない。もし親がそんな風に考えていたとしたら、やめてくれと思うだろう。だからこれは完全な自己矛盾だ。たぶん私は、子の中に自分の邪悪さや弱さを見るのが怖いだけなのだ。
 だが、希望がないわけではない。子の遺伝子の半分は妻からの遺伝である。彼女のもつ柔らかい色をした性質が、私の濁った色の性質を和らげてくれることを、私は無責任に期待してしまう。併せて、遺伝子がすべてを決めるわけではない。生物の多様性は、およそ人間がすべて把握しきれるものではないし、それは私のもっとも愛するもののひとつだ。性質の複雑さを遺伝子やなんやといった自分たちの理解しうる枠に押し込めてのみ考えると、優生思想などの袋小路に迷い込むことにもなろう。
 それに言うまでもなく、生殖というシステムこそが、生物の継続した存在を可能にしている。この複雑で美しいシステムが生物に備わっているのなら、それを用いることは恐らく間違いではないのだろう。”Leep before you look.”とも思う。そして、ものごとの善い面だけを考えるようにするのだ。”Come rain or come shine.” それは私という人間を超えた問題なのかもしれないから。大きな河のながれのように。

読んでいただきありがとうございます。
親となられた諸先輩方からすれば、こいつはなんて見当違いなことをウジウジ考えているのだと思われるでしょうね。それに、こんなこと考えているやつ、絶対モテませんよね(笑)
これからどうなることやら、あまり考えすぎずに過ごしていこうと思います。