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神学と物理学:後編(鉄道の例え)

神と人と時間について、電車に乗ってて思ったのですが、時間の中で過ごす人は降りる駅の記されていない片道切符を渡されて電車に乗せられた人のようだと思いました。神様は、その時間の電車の車体も路線もダイヤも誰がどの駅で乗り降りするかも全部全人類分、規定し設計し製造し運用する方のようです。

例外はあるでしょうが、人は自分の寿命を知りません。命を伸ばしたり縮めたりも基本的にはできません。過去や未来にも行けません。時間が電車のように進む中に乗り、自分の降りる駅ですよと指定された駅で、死の時を迎えます。それを計画し、それに介入し、変更を加えることのできる方は神様だけです。

乗客は一般人であり、鉄道会社の意思決定者ではないので、何かを変える権限がないのと同じです。しかし祈ることはできます。車掌さんや駅員さんに助けを求めるように。しかしいつもその要望が通るわけではありません。命に関する祈りが、時に聞かれたり、時に聞かれなかったりするのも同じだと思います。

一般人は、電車の車体設計プロセス(時間の物理学的仕組み)に介入できません。ダイヤ(時間の移動)も変えられません。勝手に他の乗客を切符に指定されてない駅(寿命以外の時間)で降ろしたり(他殺)、降りてはいけない駅で降りる(自殺)権限もありません。個人的には、僕はそう解釈しています。

鉄道会社における権限(神の時間の権限)のない点では一般人と同じですが、中には特別な人達がいます。物理学者は鉄道ファン・鉄オタのような存在だと思います。並外れた関心と探究心を持ち、鉄道を(時間の物理を)観察し、研究し、鉄道会社のかなり込み入った仕組み(時間の物理学)すら理解します。

鉄道会社における権限はないが特別な一般人としてクリスチャンは、信頼できる社長の子どもたちのような存在かもしれません。父(天の父である神)の電車の運行(時間の運行)の詳細は分からなくても、父の決めたこと、父のすることに全幅の信頼を置き、父と深い愛の関係を持って生きることができます。

このアナロジーで言うなら、イエス・キリストは本社に勤める(神は天におられる)社長の代理として、本社から乗客全員のところに来てくれ(神であるのに人となり天から地に来てくれ)、応対してくれる社長と同じ権限を持つ(時間に関する奇跡の全能権限を持つ)社長の息子のような存在かもしれません。

イエスの乗った小ロバが所定の位置に存在するためには、ペテロの釣った魚の口に硬貨が入っているためには、時間を遡って世界に介入がなされていなければなりません。時間に介入する権限を持った、時間を創造し運行する、神と同じ権限を持った、神の子イエス・キリストなら、当然可能だと僕は考えます。

現代の最新の物理学ですら、時間がどのように存在し、時間がどのように振る舞い、時間とは何なのかについて、その全容を解明できていません。解明できるかどうかすら分かりません。物理学における最重要課題の一つ、量子重力理論の解決が鍵になるでしょう。人類は時間を科学的に未だ理解していません。

時間とは何かすら科学的に完全に知らないため、時間に自由に介入でき、それらを緻密な計画をもって全人類のために運行する神と、その権限を委ねられた神の子イエス・キリストの行った時間に関する奇跡について、科学的だの科学的でないだの、論じるために必要な前提知識が人類にはないと僕は考えます。

そもそも、「科学的」とは何でしょうか?この「時間」を論じる文脈では、物理学において、仮説として理論物理学が構築した数式に、現時点での最大限の精度と最高の技術で制作した実験器具から得た実験データに矛盾しないということをもって「現時点で科学的にはこう数式表現できる」と言えるのみです。

「現時点で」ということは、将来いくらでもちゃぶ台返しを食らう可能性があるという意味です。実験器具の制作に必要な技術が向上し、より精細なデータが得られ既存の数式と合わなくなり、理論が拡張・再構築・変更されてきたのが科学史です。今ドヤ顔で科学的と言えても数十年後にはしごを外されます。

この砂のように変動する土台が、有限の予算と人員の中で制限を受けながら、徐々に発達してきた人の営みとしての「科学」の本質です。極めれば極めるほど、人間の知覚や認識の、不確かさ、無理解さ、有限さを実感するのが科学です。これに対し僕はイエス・キリストは岩のような不変の土台だと信じます。

鉄道会社の社内規定すら読んだことがないのに、社長代理職にある社長の息子が社長権限を行使してやった業務行為を、社員ですらない一般人が「社内規定違反だ、いや社内規定を遵守している」などと言うなら、不遜でしょう。キリスト教に改宗した後、僕も同じ不遜をやっていたことに気づき、止めました。

「イエス・キリストが時間を創造し運行する神の子であることを認めること」は、例えるなら、「その人が社長の息子であるだけでなく、社長代理の職務を担っており、それゆえ社長の権限を行使できる存在であること、また自分は社内規定(時間の物理学的全容)を知らないことを認め、尊重する」ことです。

聖書を例えるなら、旧約が鉄道社の社長の制定した顧客用利用規定(律法)、社長の業務記録(歴史書)と社長代理でもある社長の息子の着任予定発表(預言)、新約が社長代理である社長の息子の業務記録と顧客向け利用ガイド(福音書)、社員の業務記録(使徒行伝)と社内連絡記録(書簡)、予定表(黙示録)でしょう。

その各種文書の中に、社内規定(時間や物質、世界の創造と運行とその仕組に関する関する物理学的全容)は書いてありません。電車(時間)を利用する顧客である一般人が、乗車時間(人生)中にどうすれば快適な旅(良い人生)を送れ、安全に下車(永遠の命を得て死を迎える)できるかが書いてあります。

一般人は社員でも社長でもないので、電車のシステム(時間の仕組み)の運用に責任を持たず、社内規定の全文(時間の物理学の全容)も知る必要ありません。しかし、電車(時間)を利用する(自分の人生を生きる)際、必ずすべきこと、してはならないこと(聖書の言葉)を、いくつか知る必要はあります。

電車を使う時、すべきこと、つまり、利用規定を知って、従うこととは、ちゃんと切符を買い、ちゃんと改札を通ること等。してはならないことは、他の乗客の迷惑にならないこと等です。降りる時に一つ大事なことがあります。社長代理である社長の息子が代わりに運賃を払ってくれたことを認めることです。

実は利用規定全然守ってなくて莫大な罰金もありましたが、社長の息子が責任を取って辞任(十字架による死)してチャラになりました。ただ、チャラになった状態で下車する(救われる)には、社長の息子が自分の代わりに罰金をチャラにしてくれた事実を顧客の自分が受け入れる(信じる)必要があります。

社長は乗客が下車したら(死んだら)全員社長の家(天国)に来てほしいと願ってます。ただ社長の家族しか入れません。社長の息子が運賃と罰金を代わりに払ってくれることを受け入れた人はその息子の仲介で社長の養子になります(神の子とされる)。社長が他人のままだと居心地悪く過ごします(地獄)。

大事なのは社長の息子は辞任して責任とった(十字架で死んだ)けどまた社長代理に復帰した(復活した)ということと、これが自分のやらかした利用規定違反とその罰金(神を敬わない罪と罰)をチャラにする(あがなう)ためだったのを受け入れる(信じる)ことです。これがキリスト教における救いです。

社長は客を全員養子にしたいほど顧客第一。下手を打った客のために息子を辞任すらさせた。家族としてずっと幸せに共に暮らしたいからだ。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

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