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キリスト教、ゆるさとマジメさのあいだ

宗教を紅茶かコーヒー等の趣味趣向と同列にする主張があったが、自分はそんな軽さやノリでキリスト教に入信したわけではない。入信するときにこの先の人生全部投入する覚悟をしたし、それまでの世界観や価値観を全部破棄して自由意志で、聖書の世界観と価値観を選択するという後戻りなしの決断をした。

別にキリスト教を信じる人が全員そういう重い決断をしなければならないと押し付けたいわけではない。ただ、自分の場合は重い決断を経たというだけだ。キリスト教の敷居を下げるゆるい運動には価値があると思う。ただ、キリスト教の真剣で真摯な側面に自分は動かされた。それが自分の性に合ったからだ。

「軽く親しみやすく楽で楽しいキリスト教」が称賛され「重く真面目で真剣で熱心なキリスト教」が忌避される傾向は良くないと思う。どちらにも役割と価値があるし同じく尊重されて良いと思う。その人に合ったテイストのキリスト教が入り口になる。ただ、両者は同じキリスト教の異なった側面でしかない。

「まじめ、かっこ悪い」という風潮は確かにある。それはキリスト教じゃなくてもある。「まじめ」をいじめるなら、そういう「いじめ」こそ、かっこ悪いと言いたい。まじめはまじめで生きていていい。ほっとけば良い。ただまじめに生きようとするクリスチャンを見てけなす、軽視するのは良くないと思う。

冗談の分からないクリスチャンはいる。まじめにしか生きられないクリスチャンはいる。彼らはカッコつけるためじゃなくて、まじめに生きることのできないあなたを裁いたり責めたりするために、まじめにしているのではない。彼らはそういう人たちなだけだ。そういう個性も許容し、共生できるなら嬉しい。

まじめなクリスチャンが、一見「軽そうに見える」クリスチャンを見て、軽蔑したり非難するのも、良くない。表面的に見える「軽さ」の中に、自分より何倍も熱い伝道への熱意があるのを、自分が見過ごしているだけかもしれない。心の中を全て把握し、その善悪を判断できるのは神様だけしかいないからだ。

表面的にはまじめに、真剣そうにしているクリスチャンの心の中で、嫉妬や党派心に基づく憎しみが渦巻いていることだってある。軽そうに見えてるクリスチャンの心中で燃えるような熱い愛が弱い小さい人のために輝いていることもある。だから、心の見えない人間ごときが互いに裁き合うのは間違っている。

ゆるいキリスト教を標榜する人もまじめなクリスチャンがまじめにする自由を許容しよう。まじめに生きようとするクリスチャンもゆるくキリスト教をやる人の自由を許容しよう。互いに否定的な干渉をせず、尊重し、共存し、愛し合えば、周囲はそれを見て、彼らはイエス・キリストの弟子だと認めるだろう。

まじめにやるのもゆるくやるのも自由だ。ゆるいクリスチャンに、まじめなクリスチャンが「まじめ、かっこ悪いやめろ」と言われる筋合いはない。ゆるいクリスチャンはまじめなクリスチャンに「真剣にやれ」と言われる筋合いはない。そんなの当人の自由だしほっとけば良いじゃないか。むしろ愛し合おう。

写真:Kotomi_

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