見出し画像

おばあちゃんの笹寿司

私の父方の祖父母は、石川県羽咋市で生まれ育ち、ほとんどその地を離れることはなく、生きてきた。祖父母は農家をしており、祖父が体調を崩して入院するまでは、お米を作り生計を立てていた。

九州に住んでいた私たち家族は、そのお米を食べ続けてきた。しかし、小さい頃の私は、それが当たり前のようにあり続けたため、どれだけ貴重なことであったか気付かなかった。

祖父母からお米が届かないようになって、それが恋しくなったのはもちろんであるが、お米を食べることができること、それ自体の本当の意味でのありがたさに気付いたのは、私自身が農業を勉強するようになってからであった。

祖母は老人介護施設で健在であるものの、もうかつての祖父母の姿を見ることが叶わなくなり、私も農業を志し始めて、作物の生育が色んな要素に左右されることを知ってしまった現在、祖父母のことを必死に思い出そうとしている。といっても、祖父母が共に元気に農作業をしていた姿は、私が小学校5年生の頃までの記憶で終わっている。

祖父母宅を訪問するのは、年に1回夏休みと決まっていた。祖父母宅に行けば、自然の中で遊ぶことに精一杯で、他はそっちのけであった。クワガタ採りに、神社や山、畑の探検に、さんざん遊び疲れ果てては、祖父母宅に帰ってご飯をたくさん食べるという生活を送った。

祖父母は、二人とも穏やかなおとなしい人だった。祖父は、孫の話をほぅほぅ、と聞くだけで特に自分から何かを語る人ではなかった。祖母は、私の母方の祖父母に会った話や、私や妹が生まれたときの話、親戚の話を語ることが多かったように記憶している。

さて、さんざん遊び疲れた後に、食べていたご飯であるが、必ず家族全員揃って『いただきます』をした。すると、無口な祖父が必ず「たんと食べてくさいのぅ」と言った。その顔はいつも微笑みを絶やさず、弥勒菩薩のようであった。

私と妹は、たらふくご飯を食べた。大体そこで口にするものは、祖父母が作ったお米を主食に、祖父母が作ったかご近所から頂いた野菜を中心にしたおかずで、どれも五臓六腑に染み渡る美味しさだった。

自分で野菜を作るようになって知ったことが、野菜が美味しければ、美味しいおかずが必ずできるということだ。健康に育った、収穫時を逸していない野菜は、ちょっとした味付けで必ず美味しくなる。祖父母はそのプロであったため、漬物、キュウリの醤油漬け、茄子の味噌汁、ピーマンの炒め物、トマト、レタス等どれを食べても美味しかった。

祖母が、私たち家族が来るときに必ず作っていてくれていて、私と妹がたくさん食べたがったものが、笹寿司であった。祖母は、それを『ますずし』と呼んでいたので、私はつい最近まで、鮭だと思っていたが、サクラマスを使っていたのかもしれない。

それをたくさん用意してくれていて、滞在期間中に、少しずつ食べ、帰りの新幹線でも食べていた。その寿司は、酸っぱすぎずちょうど良いご飯の旨味がきちんと生きた味わいで、本当に美味しかった。後に祖母が作れる状況ではなくなり、食べれなくなったとき、金沢駅等で買って食べたが、食べ慣れた祖母の味とは全く異なっていた。

一度、祖母にお願いして笹寿司(ますずし)を一緒に作ったことがある。私たち姉妹は、争って手伝った。朧気な記憶を辿ると、寿司を巻くクマザサは裏山で採ってきた。炊きたてのご飯にお酢を入れ、冷えたら、十字に置いたクマザサの上にご飯を置き、その上に塩漬けにしたマスを置きくるむ。そして笹にくるんだ寿司を木樽に並べ、蓋をし、重石をし、しばらく置いて出来上がり、であったように思う。

この北陸地方の郷土料理として知られている笹寿司であるが、保存料やうま味調味料等がなかった昔、酢、砂糖、塩等の調味料や抗菌作用のある笹を使って保存できるようにし、持ち運んでいたという、日本の食文化の知恵が活きた最高に贅沢なご飯の一つである。

最近、どうしても笹寿司が食べたくなり、仕方がない。

これは、私が祖母の作っていた笹寿司の味を再現するしか方法はない。

それを目標に、私は最高の米を作るべく、これからも農業を続ける。




いつも、私の記事をお読み頂き、ありがとうございます。頂いたサポートは、私の様々な製作活動に必要な道具の購入費に充てさせて頂きます。