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僕と音楽について

 本日は、僕にとっての言葉の聞き方、音楽の聴き方(演奏のしかた)について自分の頭の整理も兼ねて書いていこうと思う。こんなことを書きたくなるのも、きっと秋になり、雲の天蓋が宇宙に引き寄せられ、”よしなしごと”を空間に敷き詰めても窮屈ではなくなってきたからだ。

 先月、職場でひょんなことから難読地名、苗字について上司と話す機会があった。色々な名称を思いつく限りお互いに話あっていたのだが、その中で「和崎」と書いて「にしざき」と読む苗字に最近出会って不思議だった上司が投げかけてきた。普段より、仕事の内容もさることながら、何故かこういった業務に関係無い議論をお互いにする機会が多い。
 僕も「和崎、にしざき」という読みが存在することは初めて聞いたため少し興味をそそられた。特にその会話の中では答えというかお互いに何かしら結論を見出すことも無かったのだが、その後就業中頭の片隅に残り続け、調べながら帰路についた。
 結局、すっきりした回答は出来上がらなかったものの、自分の中での想像の筋道を、翌日休憩の折に上司に伝えた。

 「和」は「にき、にぎ」と読める。日本神道に出てくる穏やかな御霊である「和霊=にぎみたま」などが例となるだろう。この「にき」が音便変化をして「にし」となり「にきざき→にしざき」になったのではないか(埼玉なども「さきたま→さいたま」と変化している例)、というのが発音の側面からの僕の推測だ。
 表記となり立ちの面からは「和崎」の「崎」は半島部分などの尖った地形であり「和」は文字通り穏やかな様子からきていると考えた。ただ、日本の地名には「和崎」と書いて「にしざき、にしさき」と読む地名は無い。ここがすっきりした回答にならなかった要因である。「西崎にしざき」と読む地名をすべてあたってみたら、もしかしたら”おだやかな鋭角状の土地”が多く見つかるかもしれない。この推測を上司と話した際、日本語は漢字文化と仮名文化の融合によって成り立っているため、表記と発音双方で変化をしてしまうので、推測の域を出ないよね、と納得と諦めに至った。

 僕はこういった日本語に対する変な角度での興味があるせいか(他人と比較などしたことはないが)、本を読むのにも表記と脳内の音声変換、一文同士のつながりなどを無駄に咀嚼するのであろう。読み進めるスピードが遅い。
(これはより自分の中では問題のある性格/性質と思っているのだが、影響を受けやすいため、1冊の本を読むと何日か余韻が残り次に食指が動かない。下記の漫画を見つけた時は、救われた気がした。)



 本だけでなく、音楽においてもこの性質が発露してしまったのだろう。CDやラジオ/TVくらいしかメディアが無かった10代半ばくらいに、書物に比較すると恐ろしく平易な日本語で構成される邦楽を嫌うようになり、もっぱら洋楽を聞くようになった。CDレンタルや購入の原資たる親御様たちには「英語の勉強」と方便を使っていた。
 平易な歌詞だけでなく、メディアの選択肢の狭い中提供される邦楽を、同世代がまるで妄信的に画一的に、消費しているさま(10代の反抗心から来るかってな想像でしかないのだが)がとても居心地が悪かった。
 そうやってふれあいを始めた洋楽に対して、方便の”勉強”の気は全く無しに、シンガー達の発信するものを読み取ろうと辞書片手に和訳を繰り返していた。和訳すると、結局は邦楽とあまり変わらない平易な文章が表れてくるのだが、和訳した際に選択できるニュアンスの触れ幅や日本語にはない韻などに酔いしれていたのだろうと思う。
 red hot chili peppersのUnder the Bridgeが、恐らく一番こすった曲だろう。

"Sometimes I feel like I don't have a partner Sometimes I feel like My only friend Is the city I live in, The City of Angels Lonely as I am together we cry"
孤独を感じ、歩みの交わらない人と同じであろう無機質な街に、ただ包まれているをことを慰めにする。
まるでカミュの「異邦人」に出てくる言葉「優しい無関心」そのものだ、と当時の僕は解釈(また解釈という言葉を使う!)していた。今もそう思ってはいるのだが。
 #このタイトルが含まれるアルバムは1991年発売であるが、中学時代直撃 ではない。こう書かないと年齢を推測されるのが怖いところ
 #このあたりから眠くなってきてますので、どんどん文章がおかしくなってます

 他にも当時入手可能な範囲で色々と洋楽に触れあっていたのだが、ここで問題にぶち当たった。
 邦楽に感じていた、平易すぎるメッセージと、同世代の”手垢”のようなものから逃れるために、自身に籠り楽しめた洋楽へのアプローチが個人的体験過ぎたためか、「特定の曲に対する、特定の記憶のこびりつき」みたいなことが起きてしまい、だんだんと好きであった洋楽が聴きづらくなってきたのだ。
 たまたま特定の曲を良く聞いていた時期に、ある学校行事があればその記憶が、部活の大会の記憶が、数学の補修をした教室の風景が、他校の集団に絡まれた電車内のいつもの登下校と違う窮屈さが、意中の女の子があさっての方向に投げよこした飴を上手くキャッチできた時の彼女の嬉しそうな表情が・・・
様々な記憶が音楽にこびりついて離れなくなってしまったのだ。

 大学に入り、実家を離れ下宿を始めた僕が次に求めた音楽は、インストゥルメンタルであった。歌詞の存在しない、あるいは歌詞が重要な意味をなさない世界。そこでなら記憶のこびりつきは起きないだろうと思った。
 いや、当時は明確にそこまで意識していなかったので、自然と新しい方向を選択したのだろう。
 大学生には自由時間が多いので、聴いたり、自分で演奏して楽器の音のみで構成される音楽と触れ合った。たくさんの友人たちとCDを交換したり演奏したり。
 ただ、そこでもまた問題が起きてしまった。この問題はインストの世界に触れあって結構すぐに起きた。
 言葉に束縛されない世界と最初は捉えていたのだが、言葉が無い分、リズムや旋律、コード進行などの窮屈さをまずは感じた。”お決まり”ではないようで、”お決まり”に裏打ちされているというか。演奏を共にする友人たちはあまりその「定型」の世界に違和感を感じていないように思えた。
 また、言葉が無い分、器楽にて表現を広げるには、圧倒的な技術が必要であり、都合、”技術もちたる者の世界”としての敷居の高さと、それが故のいわゆるインテリ臭を感じてしまった。
 となりでロックをしているバンド間の関わりの自由さと奔放さに比べ、何か器楽オンリーの世界に属している友人や先輩後輩の関わりにどうしても、技術や経験によるヒエラルキーが存在していて、音楽とのふれあい方にも「心の動き」ではなく「技巧への憧憬」が根底にあるような世界だった。それ自体が悪いわけではないが、何か「表現する、表現を受け取る」という関係性の前に分厚いフィルターがあるというか。

 そんなやきもきした、やりきれない座りの悪さを感じていたころに出会ったのが、インストではあるが表現者と受け取り側の距離が圧倒的に近い音楽であった。

 誤解無いように断っておくが、彼らも素晴らしい技巧を持った方たちだ。

 器楽の表現にとどまらないエネルギーがある世界だ、と当時の僕には思えた。コード進行はシンプル。リズムも複雑なものではない。
 しかし、コール&レスポンス、ダイナミクスでダイレクトに引き込む力がある音楽。

 瞬間芸術である音楽において、どれだけ受け取る側の心が動くかというのは、一つの物差し足りえる。技巧や洗練さ、クラシックのような連綿と続く歴史に対する継承や新解釈を楽しむことも、心の動きと言える。
 ただ、僕にはこういった音楽は『何も持たない聴衆の中からもエネルギーが沸き立つことを大事にしている』ように思え、更に言語に寄らないアプローチを可能にしている、普遍的な人間と音楽のかかわり方に根差した方法論であると感じた。
 普遍的な人間と音楽のかかわり方、というのは、社会的動物である人間が言語やその他コミュニケーションツールを獲得していく初期段階で手にいれたであろうものを想起している。高度な言語や文字・印刷物が必要な多層的な共通の社会/歴史認識などは無い状態。そういった段階で獲得した音楽というのは、非常に根源的・野性的なもので、裏を返せば異なる社会歴史文化を持つものにも共通的に通ずる可能性・パワーをもつものと言える。
 こういった音楽に出会ってから、僕は一辺倒にこのカテゴリーの演奏をすることになった。当時属していたコミュニティの中では異質なことをしていたと思う。みんな大人でしたから、直接何か言われることはなかったが、好意的に受け取られていたかはわからない。バンドメンバとして付き合ってくれた友人たちには、今更であるが感謝しかないな。

 つまるところ、僕は個人的な没入・熱狂といった経験を音楽に求めて、演奏する側に回ってみて、方法論としてより没入・熱狂を生むアプローチを模索していたのだろう。

 演奏から離れて結構な年月が経つが、今は非常に多くのメディアがあり、多様な音楽を手軽に聞けたり、クロスメディア的に展開している音楽に、意図せず出会うことが多くなった。
 一方で、クリエイター側も大きな変化を必要としているようだ。

 彼らの音楽を選択的に聞いたことはほとんどないが、一線級である方々にとっても、CDなどのハードありきのメディアが土台をなしていた10年から前の時代と今の戦略は異なるようだ。ソフトベース、サブスクにとってかわられてやせ細った、1対大多数の関係性に成り立つ土台ではなく、生演奏での経験を届ける方法を重視するようだ。

 何となく、自分が好んできた音楽の個人的・根源的・野性的アプローチが昨今の状況にて重視されてきているのかな、と不思議な縁のようなものを感じている。たまたま僕がそう経験をしてきただけなのだが。

 やっぱり音楽は、自分で選んで、没入・熱狂的に楽しむのがいいね。そんな時代になってきて嬉しいと思います。
 出会っちまったもの、自分で選択してしまったものにはまってしまうのははしょうがないね☆


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