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DO TO(19) 「あれから好きな画家は河原朝生」


それからエリはバイトを変えた。今度は銀座の高級パブだった。客の一人が有名な画家で、画廊の経営者に「先生」と持ち上げられていた。画家はエリが美大生とは知らず声をかけてきた。エリの不愛想が気に入ったらしい。ペンを取り出すと、気前のいいチップのつもりで色紙にさらさらと絵を描き差し出した。売れば五万円位にはなるだろうか。エリはそれをダーツの的にして一日でクビになった。
もちろんエリは教授も気に入らなかった。相手が学生という、ただそれだけのことで教授は大きな態度をとったからだ。どこを向いても面白くないエリは男に走るしかなかった。それは私の心を掻き乱した。マンマとの苦い光景をうっかり見たばかりに日暮れまで窓ガラス越しの時間を費やしてしまった。気を持ちなおそうとしたが、今度は教室の前で大友さんといるのを見かけた。エリはどんな時にも自分の力をためして面白がる人だった。女性の魅力にものをいわせる人だった。一人の異性と真剣に付き合うという意味が分からない人だった。
風の動かない夜だった。自動販売機の前で紙コップのジュースを飲んでいるとき、私はお説教のつもりでつい口をすべらせた。エリは「どうせすぐ嫌いになるだろうから、今の内に会っておくの」と手でストローをかきまぜながら言った。私はそれを聞いて嫌な気分になった。不安におそわれたのも一度や二度ではない。私はエリよりもずっと初心だった。 
ただ、さまざまな男と付き合ってきた経験がありながら、純粋無垢を装う女性というものの虚偽に、私は飽き飽きしていた。その点ではエリは嘘をつくことがなかった。だから私は他の欠点と同様に男をとっかえひっかえするエリの自由奔放な態度を許していた。正直いうとエリに首ったけだった。苦しみを避ければ幸福も来ない。彼女の私に対する優越は分かり切ったことで、ころころと相手を変える自動販売機のような性質を認めなければ、私はその列に並ぶことさえできないようだった。
多くの男はエリの美しさにみとれていた。ただエリの派手な振る舞いに反感を募らせる人もいた。エリは気が強く快活だったので目立ちすぎた。いつも男と連れ立っていた。気楽な調子で男性に話しかけるので、多くの女性はエリのそういう態度に眉をひそめた。面と向かっては言わないが、裏でこそこそと陰口を言った。エリは自分が嫌われていることをよく知っていた。しかし、他人の幸福よりも、自分の幸福に正直であることを当然の欲求であると信じていた。冷ややかな視線には気をとられたくなかった。それは和して群れることを本能とする女性社会の鉄則とは背馳していて、エリはどこへ行ってものけ者だった。
僕らは中庭に通じる小道を歩いていた。いやがうえにも人目を引いた。自分がまるで田舎臭い缶コーヒーのパッケージになった気分だった。中庭には三十人ほどの生徒がいたが、周囲の視線が注がれているのを感じた。その中に軽蔑と敵意を含む視線があった。向かい側のベンチに腰掛ける女性徒たちだった。目をむく女性の「信じられない」という声が聞こえてきた。エリの歩調が乱れた。こうなったら早く建物の中に入ろうと、黙って彼女たちの前を通ることにした。痛まし気に私がエリの横顔を見ると、エリの目の輝きは消えていた。赤くなっているのに気付いた。私は胸がつぶれる思いだった。この時になってはじめて、私は彼女が長く苦しんでいたことが分かったのだ。
白い眼で僕らを眺める女性たちの前を通るとき、私は手を差し出した。膝が震えたが夢中だった。私とエリは手をつないだ。しかし、彼女の苦しみを救うにはまだ足りなかった。力強い引力を感じた。私は振り向いた。エリと目と目があった。心臓の鼓動をのど元まで響かせながら、僕らは世界を変える瞬間をやりかけていた。私はエリを抱きしめた。そして唇と唇とを打ち寄せた。この時、時間が止まったようだった。誰もが驚き、振り向いた。立ち止る人もいた。女性徒たちは目を背けた。口も利けなかった。予想どおりの反応というべきだろう。しかし、正気ではない行動の中でも僕らはキスを味わっていた。
目立つことには快感があった。しかし僕らの官能のおののきは自殺行為だった。暴走すると同時に遭難しかかっていた。海上は嵐だった。もう手遅れだったかもしれない。敵も多いだろう。トラブルも多いだろう。しかし学生生活の破滅など覚悟の上だった。目指す地平線は揺れていた。しかし私は心のアクセルを踏み続けた。夜の海をはしる疾風のように僕らはどことも知れない場所に向かっていた。

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