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DO TO(13) 「あれから好きな画家は河原朝生」

小西さん
 
今日は日曜日なので美術館へ行きました。お恥ずかしいことに美術館は半年ぶりでした。スーパーなら喜んで行くのに、どうしてこうも美術館へは行かないのでしょう。それは貧乏人の興味の中心が芸術ではなく、ご飯を食べることだからかもしれません。極貧ということではありませんが、暇がありません。  
ですから、久々の展覧会で胸がスカッとするかと思いましたが、主催者との間に溝を感じました。何とかいう絵画館のコレクション展でしたが、どうもテーマが粗い感じです。あまりにひどいのでがっかりしました。東京ではいつもどこかで何かやっていますが、北海道ではどうなのかしら。あまり期待できませんね。それにしても、どうやったら味気ない生活を変えられるのでしょう。
あたりがうす暗くなってきました。今日の献立はカレーです。隠し味に味噌をいれます。北海道は手作りの味噌がたくさん売られていてそれだけが楽しみです。ともあれ、そろそろ帰らなくてはなりません。喫茶店でコーヒーでも飲みたいところですが、贅沢は低所得者の敵です。私には縁がありません。では。

エリちゃん

絵を描く時間は、画家にとって生活そのものだと思う。趣味で絵を描く人にとっては、いわば私的な時間だけれど、画家にとってそれは私的な時間ではない。それどころか、一日の一番いい時間をそれに充てることになるのだから、むしろ社会的な労働に組み込まれるべきものだ。それは、暇な時間を犠牲にして成り立つものだと思う。
だから、美術館へ行くというのも、明日の制作への糧でなくてはならない。物見雄山では意味がない。やかましい言葉を使えば精神の消耗でなければならない。感動に打ちのめされて絵を見る価値は、たとえ挫折しても内的な生活を活発化するうえで、向上心を蓄積にすることにあるのではないだろうか。
このように考えると、絵を見るというのは、人の内面に入るということかもしれない。入っちゃいけないってことはないだろうけど、ある程度、土足で入り込むようなことがある。だけど、そうしないと話し合えないことがあると思う。それはお互いさまだ。隠し立てしたんじゃ率直な意見にならないからね。だから、エリちゃんにも、愛想のよさなどは気にせず、自分の意向を率直に語ってほしい。仮面を捨てて、心の反映を素直に語ってほしい。やっぱり、それが、私の好きな狸小路エリだからね。

小西さん

お金のことで手紙を書くのは本当につらいことです。母に、お願いしましたが、返ってきたのは「故郷に戻ってこい」という短い走り書きだけでした。姉にもお願いしましたが、姉は私がまともとは思えない画家にたぶらかされていると信じているのです。画家というのは身分の卑しい人間がする職業だとも言われました。これはまるで私を侮辱している言葉にも聞こえました。プライドを揺さぶられたマンマ君は、いま新聞の勧誘をしています。そんなことをするのが彼にとってどんなにつらいかお分かりになるでしょう。でも、どうしても東京で個展をするためにはお金がいるのです。そして、自分たちの絵を世にみとめさせたいという意地があります。あなたには何度も助けていただいて、心苦しいのですが、私たちを助けてくれないでしょうか。

9月11日 午後1時

画集に掲載された図版の一枚一枚が、ゆっくりとしたリズムで私を導いていた。いずれまたあの姿をどこかで目の当たりにできるかもしれないという期待もあった。私とエリを繋いでいるのは絵を描いている時間だった。私は美術評論で小銭を稼いでいるが、まだ希望は捨てていなかった。もちろん、そうは言っても、努力が必ずむくわれるといういわれはない。悲痛な努力の甲斐のない画家のことは私が一番よくわかっていた。恋も名誉もほどほどが大切だ。画集は腹八分目に限る。河原朝生は雨の日に限る。あの寂しげな空の表情がほろりとさせるのだ。
私は河原朝生の作品には独特な詩があると思っている。彼の絵画の大きな要素である詩は、一人の人間が穏やかな日常と向き合うことで醸し出されるノスタルジアだと思っている。ノスタルジアは絵画の持っている理想を表現する上で無上の飛び道具で、生活の中の出来事に対する反応として出現してくるものと思われる。それはまるで生きているように感じる。つまり、とりたててこれといったこともない存在と時間が、ある色彩の光にひたることで静寂の中に呼吸のようなものを感じるのだ、見る者を魅了するこの心理作用は、たとえば同じ布でも、シャツ、ハンカチなど、様々なものになるように、さまざまな形をとる。布の性質によって適不適があるように、脳の性質によって、心の種類も違い、郷愁が働きやすい人と、働きにくい人がいる。絵画の存在の意味は、たんに生活を詩的に眺めるだけでなく、そこに郷愁の働く余地を残すことだ。
それにしても河原朝生は面白い。ただ、自分が描いたのならまた別のよいものが描けそうな気もする。もう、少しユーモアを付け加えられるのではないか。人間とは意味を問う存在だ。絵画とは何か、その機能は何か、絵画には社会に対して貢献する仕事との違いがある。それは何か。おそらく、政治家の立場からすれば、絵画も社会的なものとして利用が可能だが、ともかくもそれを評価の基準として絵画を見ているところがある。そこに視野のせまさもある。河原朝生の絵画は政治的なものからは一番距離の遠いところにある。それだけに理想を求め、美しい思い出を求める、要するに尊い人生の哲学なのだ。
河原朝生の哲学はたぶん人生を見失った時に味わうものだ。そのときには、夜空に光る星のように美しい思い出だけが頼りになるのだ。自らの存在と欲求とが、これこそが私の理想の夢だと定義するかのように、問う技術そのものが、微妙な色合いを偲ぶ人生にとって役立つことになる。

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