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DO TO(11) 「あれから好きな画家は河原朝生」

大学のアーカイブをめくりながら、私は首をかしげていた。現代の個人的な趣向に偏った足の表現にはいやらしい人為性と不自然さがあり、私は好きではなかった。そこで私は足というテーマの新しい枠組みを提案した。
「手とは対立する足の機能を明確にして、もう一つの進化の歴史を浮き彫りにしよう」という意見だった。金沢さんもエリも、この考え方に賛成した。茨木さんは会話には入らず、蚊に刺された足をポリポリとしていた。私はそれを横目で見やって、ため息をついた。困ったことになると思った。金沢さんが「それじゃあ、企画の文章は小西さんよろしく」と要求したからだ。こうなると思ったが、私は頭をかかえた。
作品のリストアップとチラシ制作は金沢さんの役目だった。エリは見取り図を担当することになった。私はこのグループ学習の最後の幕を下ろすため、企画の文章をかたづけなければならなかった。夜通しで知恵をしぼり、材料が乏しいながらも工夫して、突貫工事をやっつけた。時間がない時に重要なのは、ぐだぐだと悩むのではなく、ポイントをつかむことだ。計画がしょっちゅう変わる人間は、その点で時間の使い方が下手だということになる。
ともあれ、翌日にその原稿をみんなに見せた。全体として反応はイマイチだったが、エリだけが大げさにほめてくれた。我々は意見を主張するだけでなく、共同作業の中から妥協できるラインを見つけなければならない。そのケジメは難しい。意見というものは、意見される側の意欲をそがないようにしなければならない。その心得はたいへん難しい。
もちろん、私は自分を誇らしい文筆家と感じることはなかった。私が書いたのは義務としての雑文だったからだ。ただプレゼン発表はその日の午後だった。出来の良くない雑文はさておき、具体的な作業に入らなければならないタイムリミットが迫っているのは誰の目にも明らかだった。ところが、意外なことが起こった。この当たり前の状況を無視するように、茨木さんが反対の意志を表明した。
 これまで一つの発言もなく、考えて答えることもなく、みんなの意見にうなずくでもなく、ただ輪の中で横着に座っていた、なんのとりえもない茨木さんが先生の受け売りの言葉で私を諭してきたのだ。場の空気は波立ってきた。
私は彼女の真意を確かめようと反論した。しかし私の悲痛な抵抗は彼女の無知の砂地に吸い込まれてしまうだけだった。私は顔を下に向けて黙った。ごくりと唾を飲み込んでいた。これを真に受けたら、とんでもないことになりそうなので聞き流そうとした。だから強行して多数決をとろうとした。しかし、茨木さんは自分を無視することは許さないという態度をとりはじめた。彼女は物事の道理は無視して、覚えたての言葉や、偶然に知った先入観から、理想的な見取り図を空想して、実際そのとおりにしなければならないと思い込んでしまう人だった。みんなは彼女に必要以上に気を使っていた。私は執筆に手を入れることになった。
 私は腹を立てていた。がっかりもしていた。本当なら、もうとっくに発表のための台本に取り組んでいるところを、まだ教室の隅っこで、こんな継ぎはぎ細工の原稿に付き合っている。実際、我々に残された時間はわずかだった。もし、彼女が発表をする役目だったら、時間を無駄にすることが現実の試練を無視する愚策であると気づくはずだった。しかし発表は私の役目だった。自分はパニック障害だからという茨木さんに同情して、仕方なく私が引き受けたのだ。それなのに、この仕打ちだった。
 しかも、デスクにかじりついている私に、愚かな攻撃を茨木さんは仕掛け始めた。私から執筆の役目を取り上げて、私が築いた企画の土台自体を形無しにしようと画策した。意地悪く「誰が企画を書いてるんですか?」と喚きたてた。心の中で嘲笑して、私の苦い表情を面白がった。こいつは歯が立たないと私は思った。茨木さんは馬鹿なだけでなく手に負えない意地悪であった。
 エリは穏やかにそれをいさめたが、初めは私と同じ立場をとっていた金沢さんは逆転して「自分が書きましょうか?」と揺さぶりをかけてきた。どうやら茨木さんが、私がいないときにさんざん運動したらしい。茨木さんは私におかしな嫉妬を感じていると思わずにいられなかった。私に反感をいだき、私の敵だと立派に証明するまで、陰険な扇動の手をゆるめなかった。そして、私の気持ちをくじけさせようとするためには、エリを抱き込むことだと見て取った。その馬鹿気た戦略にエリは首をふった。

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