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ARE YOU(17)

こちらは、二、三日前には雪がチラついたりもしましたが、今日は雨でまだそれ程寒さも感じません。そちらの方はどうですか、元気でやっていますか。ところで、マンマから聞いているかと思いますが、僕は今故郷の会津若松にいます。遅ればせながら、就職活動を始めたところですが、最初はデザイン事務所を何件か当たって、かなり難しいので、どんなジャンルや悪条件でも無制限に、少しいかがわしいところでも面接してみたが、それでも年齢の事などもあるのか、マスコミで言われている通り、現実はずいぶん厳しいと実感しているところです。卒展が近いですね。インターネットで検索したら紹介が出てきました。今の状況だと僕は行けそうにありませんが、上手くいくことを願っています。

お手紙ありがとう。あと、おこめ券とビール券ありがとうございました。実際、これから借金が膨らんだらどうしようという不安をかかえているので、僕にはありがたいものでした。先日は突然のことで悪いと思っていたのですが、せっかく東京に来たのだから挨拶ぐらいしようかと足を運びました。大友さんにも会ってきましたが、彼は卒展の搬出と年度末の片づけを終えたところでした。二子玉で一緒にラーメンを食べた帰り道にエリちゃんとの恋が破局したことを話すと「小西君、前から言おうと思っていたけどもね、あのね、君、入信しなさい」とのお言葉。大友さんに相談するなんて僕はどうかしていると思いました。
さて私の方ですが、近所の弁当屋で勤めながら職業訓練のパソコンの勉強をしていましたが、二月半ばでその弁当屋は辞め現在は訓練に集中するよう努め、時々登録している派遣会社から来る深夜のDTPデザイナーの手伝いなどをしたりしています。弁当屋は体がなまっていたこともあり、から揚げの仕上がりについて、さんざん怒られるなど勤めたばかりの時は年末年始の多忙期だったこともあり、正直辛かったです。こちらの近況はざっとこのような感じです。そちらもお手紙の内容から拝見して幸せを実感しながら日々を送られているということらしいので、どうか、引き続きマンマとうまくやっていかれることを祈ります。

エリちゃん。僕は四月から、札幌の、それほど有名ではない絵画館で働かないかと言うありがたいお誘いがあり、それに飛びつくようにして学芸員の資格取得を目指しているところです。そんな中、実は大友さんから突然に電話が来て、みぞえ画廊主催のツアーで網走を訪ねる旅があるから、ぜひ一緒に行こうと言われました。僕も今のような身分なので、なだめたりすかしたりもしましたが、どうしてもと言われ、結局はなけなしの金をはたいて一緒に行くことになったのです。しかし結果として大分精神的にも落ち着いたように思え、悪くはなかったんじゃないかと思っています。 
僕にとって北海道の風景が「イイ」のは、ずばり平和な孤独を感じさせるからです。孤独だということは平和でありうるのでしょう。エリちゃんの絵は残酷なまでに厳しい社会からの孤立化が生まれる現代において、その悲しみを一時でも忘れさせてくれる効能があると思います。孤独な人は美に対して素朴な喜びを持つものです。明るく前向きな行動がとどこおると、ためらうことなく静粛と一緒になることを選びます。そんな世の中とは隔たった人生の傍観者には静謐で内省的な貴女の絵とともにいるのが心地よいのです。僕は何も自分が孤独だといいたいのはありません。人生で起こったことは、どんなことも喜びに変わるもの、だから、その事についてはことさら書き立てることはすまい。
そもそも小説なんて僕には手に余る代物だ。そして、これまでの試みも、他人の意見、他人の信じる「イイ」という範囲にとどまっていたことは否めない。もちろん人は自分の「イイ」に意味を持ち得る。恋愛の話だったり、自分の過去を振り返ってみたりして自分がどういう人間か突っ込んで考えていくと、なんとなく自分がこの世で失いたくない何かというものを自分の意味に解して答えられる。たとえば激しい絵が好きなのか穏やかな絵が好きなのか、前には何でもないと思っていたことが重要な意味を持つようになってくるものだ。高尚な趣味とは職業や社会的な地位の違いとはことかわり「いい」「悪い」をわきまえているということであって我々は敏感にそれを感じ取る能力を持っている。怠け者には怠け者の恋愛があるように、芸術にも「高い」「低い」という評言があてはまり、そして、それが本当のものならば、ぶざまな自分を引きずっても、そこに真面目で高い気持ちが垣間見えるものだ。仲直りも、こぼす涙も、喜びに変わるものはその魔法からくる。けんかをしてもさらりと忘れる性格の持ち主でも愛しているという思想の中身を別の角度から眺めるためには芸術という不思議の数々が必要な時があるのだ。だからというのも変な話だが神経過敏にならない程度に画家は人間を甘やかすべきだと考える。頭の痛くなる小言で憂鬱になる権利を奪ってはいけないが、子ども扱いして華やかな自由に慣れさせてもいけない。日常の世界からは切り離された果てしなき地平線の上で胸いっぱいに呼吸できることを喜ぶような表現がちょうどいいのだ。エリちゃんの低声の「イイ」は、そういう絵画だ。こう書いてみると僕にとってのイイの価値が普通の人とはまるで違うので困ってしまう。評論家ならば、もう少し共感を呼ぶ文章を書かなければならない。もちろん、狸小路エリを味わう部分は人それぞれだが、その心と心の重なる部分は何だろうか。そうなると単純な言葉が、やはり僕の喉に触れるのだ。 
ところで、網走の夜は真っ暗なので、つまずかないように足元を踏みしめながら散歩をしてみました。ぽつりぽつりと光る灯火は、やさしく生きる人間の在り方を説いているようでした。三月のわりあい肌寒い晩でしたが、思い出したのはエリちゃんの「月も一人の夜に」でした。それにしても、ここはなんて空気が澄んでいるのか。耳を澄ますと風の呼吸が聞こえてくるような空の煌めきは、あの絵に描かれた薄明りと同じ匂いがしました。

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