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ARE YOU(9)

「ふーたりのためー、せーかいはあるのー」と満面の笑みがこぼれそうな顔をして大友さんは曲がり廊下を掃除していた。歌いながら、体を鍛える為なのか手と足に砂の重りをつけながらである。そして生徒が登校してくるたびに「おはようございます」と声をかけるのだから友人の私ですら度肝を抜かれた。
しかし、こんな雑多な奉仕活動の裏にも彼の視線はエリちゃんに注がれていた。エリちゃんが彼の鼻先を通り過ぎると大きなため息をつき、色ぼけたヤギのような目つきでエリちゃんを追った。エリちゃんは無反応だ。だが彼は懲りない。掃除はそこそこにして、こんどは私を連れてくる。そして廊下に足を投げ出して芸術論の冊子を読み始める。親切ご丁寧に私には『ベルサイユの薔薇』を貸しておいてである。こうした計画の細かさは天才的だが、いかにもといった表情で「小西くん、この本、すごく難しいよ」と叫ぶ姿は演技賞ものだ。実は得意になる筈が、ことのほかエリちゃんの素振りが熱烈ではないので、こんな回りくどいやり方で高尚な趣味というものをアピールしているのである。うんざりとした私の顔を見て他の生徒たちはニヤニヤと笑っていた。
「童顔で、胸は小ぶりで、尻プリン、ルーベンスからルノワールまで、あまたの画家が挑戦してきた『パリスの審判』は、やっぱりクラナハにとどめを刺すね」
「そうですね、クラナハにあって三美神は、きっと猫に鰹節なんでしょうけど、世界のフジタだって、あの裸婦には兜を脱ぐでしょうね」
「まぁ、時代という支配階級がこんな絵を描かせたんだろうけど、クラナハの異例ともいえる幼児趣味はワイセツだよ」
「そうですね、そして想像力と云う点で変態的ですね。私も多感な時期にはこの絵を見て真っ赤になった顔を手で覆ったものです」
「君が?裸婦クロッキー大好きの、あの君が?」
「どうも、そう言われると、純情アピールを撤回しなきゃいけませんかね。今じゃ目が職業病ですから」
「そういうことになっているね、もう僕と君とは」
「わぁ、ひどい。陪審員もなしですか」
「そんなものはありません。判決は下されました。それにしてもクラナハの表情を見たまえ、この甘美な媚びの微妙さ、いくら感嘆してもたりないね」
「誘うような眼つきですよね。相も変らぬ工房制度では、きっと芸術っていうのは、こんな感じだったんですよ。依頼主に丁寧であれ、従順であれ、そして夢を見させろ、ってね。いまの芸術家は、そんな待遇に甘んずるのは我慢ならないでしょうけど」
「工房などという舶来の意識があろうとなかろうと、人類の業績は芸術か実用に分かれているね。そして多くのアルチザンの仕事を支配するために用いられた大義名分は宗教という金儲け以外の何物でもないと思うよ。つまり下世話で卑俗なかくの如き原因により、これこれでしかじかの美の成熟をもって落着しなくてはということだね」
「そういう点ではマンマの人物画は粗野で未完成かもしれませんが、少なくとも消費文化への迎合には堕落していませんね」
「そうだね、小西くん。たぶんマンマには自分の作品に対して親ばかなところがあるんだろう。それと生活に困らない仕送りもね。親は自分の子供がどんなでも可愛いと思い、もちろん愛しますさ。第三者の眼で見たとき、子供はみにくい毛虫でも親の情愛のある眼をとおして見たとき子供は待望のアゲハ蝶だよ。とどのつまりだね『美しいから好きなんじゃない、愛しているから美しいんだ』ということだよ」
「まさしく賢者の言葉ですね、確かに美とは参加するものです。そういう意味では直接的な民主主義ですね。そして美か醜かという言葉の乱脈な区別は現代における自由な選択を喪失するにすぎないのかもしれませんね」
大友さんとこういう会話をしながらも私はエリちゃんの方を見やっていた。気が付くとエリちゃんは仕事を休んでお茶に呼ばれている。受け皿にはビスケットが並べられ廊下で会った友人には目礼している。絵と対面する時にはあんなに難しい顔をしているのに今はとてもエレガントなものを感じさせる。私は不思議な気がしていた。その細い体にはそぐわない汗のことではなく、対人関係の中に強く作用するエリの人格を見る私の目が変わったことにだ。

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