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DO TO(15) 「あれから好きな画家は河原朝生」

そのころ、エリが銀座で個展をやるというので、我々は会場まで足を運んだ。私は用意した花束を差し出した。エリは顔をほころばせてそれを受けとった。すると対抗心に火がついた大友さんはエリの絵を買うと言い出した。エリが「ただであげますよ」というのに首を振って、どうしてもお金を払うと言い張った。画廊主に値段を聞くと、それは十五万円だった。大友さんはそれを七万円に値切って買い受けた。したい放題の大友さんが墓穴を掘ったのは明らかだった。
ただ、ここに私の不利を決定的にする事態が起こった。大友さんが世界宗教フェスティバルのイベントで歌うことになったのだ。新興宗教の信者でありながら教会で洗礼も受けていた大友さんは、キリスト教と仏教を合体させる案を持論にもっていた。少し話が大きすぎる馬鹿げた案だが、彼は大まじめだった。仏像に天使の羽が生えた絵も描いていた。特許を取ろうとして関係各所からヒンシュクを買ったこともあったようだ。
ともあれ、そのイベントに先立った世界会議が下北沢のレストランで行われたが、大友さんはそれにも出席したということだった。私は下北沢という場所に国際会議らしからぬ、うさん臭ささを感じたが、エリは憧れの眼差しで大友さんを見るようになった。すべてが私にとっては不都合で、エリの口からは「楽しみにしていますからね」などと聞かされる始末だった。
大友さんは学校の廊下で歌の練習をするようになった。アトリエではいつも額にしわを作って作詞に取り組む姿を見つけた。あらゆる苦悩のポーズをとりながら、どこかで他人の目を意識した表情は、いかにしても私の気に入るはずがなかった。もし、音楽家気取りの猫かぶりが重々しい瞼を震わせながら、うつ向いて顔をしかめ、左手でアゴを支えていたら、誰もがかくある仲間に我慢がならないであろう。
ただ、それは大友さんにとって大成功だった。彼はその小賢しい技を、女を釣る道具にして喜んだ。また、これは彼に全く新しい境地を開かせた。さまざまな場所で彼は何かメモをノートに書き留めるふりをした。こんなことをする画学生は初めてだった。そして彼はこの技を応用して、先生方からの集中砲火をかわす一つの術を覚えた。批評会での先生方からの叱咤を、彼はしきりにメモをとるふうを装った。一言一句書き漏らすもいと集中することで彼は、現実の火花を忘れることが出来たのだ。
後から彼は自慢げにそのノートを見せてくれたが、そこには「描かないのか」とか「なんなんだこれは」とか、後から見直しても全く役に立たない感嘆符のような言葉が書き連ねてあった。新聞記者のようにペンを走らせる様子は、彼にとってむさぼるように耳を傾けるふりの演技だった。みんなは騙されていたが、私は見抜いていた。それは彼が以前に、廃品をリサイクルして作った自分の作品を大いに語り、先生方から「それは違うんじゃないか」と雨あられの攻撃をくらってから、打撃を受けずに批評会をやりすごすために身に着けた攻略法だった。
傷つくことがなければ人間に成長はない。彼のやり方は時間とお金の無駄だと私は思った。私は一つのことをきちんとしたかった。音楽にかまけている暇などなかった。全身の力をしぼり、いい作品を描くことが画学生の本分ではないかと思った。坂本竜馬とジョン・レノンを足して割ったような人間を目指している大友さんは私の言いぐさを「ごもっとも」と茶化して笑うが、私は自分が絵の世界から一歩も外に出たことがないのを誇りにしていた。広い視野など持ちたくなかった。
文章はたまに書いたが、文章を書くのが好きで書いていたわけではない。絵が好きで、書きたいことがあったからこそ書いている文章だった。ただ、世にあふれる美術評論の慣行には魅力を感じなかった。嘘をつけないという点で私は失格だった。学会に発表するような理論に基づいた主張もあまり気が進まなかった。客観的な判断はそんな芸当のできる人に任せたかった。私は不確実なジャンルに飛び込みたかった。新しく打って出たかった。それは美術界への正面からの挑戦であったが、あらゆる波瀾と戦う妙手は痛いところもあった。さる大学の教授には「美術を出汁に自分を語るな」とも言われた。「とにかく生意気」というレッテルも貼られた。畑違いの代償は大きかった。これ以上はいかんともできないようであった。白旗をあげて切腹するしかなかった。

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