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ARE YOU(4)

もちろん三年近くも同じ空間に閉じこもって絵を描いていると、心の底で燃えている資源は枯渇してくる。そして一生懸命だった様子も変わってくる。競っているライバルに負けたくないと騒いでいた若者が自分の才能に親の力を代入したり、寛容淡泊を装った青年が仲間を売って教授に寝返ったり、そんな出世コースにつきものの人間関係には見切りをつけ授業のベルをまるで強制労働の始まりのように聞く者もいた。どんより曇った僕らの将来は、言葉の中にだけ存在する実力主義に出鼻をくじかれて、負け惜しみの無関心を片手にあてのないはけ口を求めていた。その僕らの筆を握りしめる力に個人差があったのは言うまでもない。
「いやー小西くん、さすがだね。いきなり訪ねても、ちゃんと絵を描いているいとは」
「いえいえ」
「うん、この絵、まぁまぁいいね。愛を感じるね」
「ありがとうございます」
「ほんと久々のヒットじゃない。僕が裕福なら、自宅の壁を飾るのに一万五千円は出してもいいよ」
「どうでしょう。でも大友さんの描いている、あの実験的で平野遼っぽいのもイイですよ」
「あぁ、あれね、あれは、まぁ二百万円かな」
人前で、さも偉い友人のふりをするのが大友さんの憎いところだ。しかし、こうも自分の絵の具体的な価値を査定されると劣等感は抱かない。大学の中にいたら、こういう罪のないアピールを受け流す術は自然に身につけさせられてしまうのだ。その対立軸は上下関係にあり逆襲もあるが滑稽や屈辱を選り抜いて大げさに茶化すのが礼儀だ。私はわざと口を開けてポカンとしていた。それは媚びているのでも、呆れているのでもなく、冗談を言い合える親しい間柄を誇示して、相手の気のままになるのを許しているのだ。この場合、大友さんも私にそれを求め否応なしに押し付けているので二人のとり合わせは喜劇に値している。
「昼めしジャンケンしようか?」と大友さんは手を振りあげながらいった。
「缶コーヒーで」と私は人差し指を上に突き出してこたえた。昼食を望んでいた大友さんは肩をすくめてうなずいた。
僕らは自動販売機のある正面の棟にまで移動することにした。二年生の絵を見学した後で、ほこりにまみれた階段をなんとなくなごやかにおりた。僕らはとりあえず中庭のベンチに腰を下ろした。芝生にはギザギサの葉をしたタンポポがもう長いこと咲いていた。
「でもね、まだ完成してない君の技術に、有頂天ハートを満たしてはダメだよ」といいながら大友さんは構え、それから深呼吸をはさんだジャンケンの勝負が決した後で空とぼけた表情で尋ねた。
「ところで松井くん。あの同人誌の取材の時に、一緒になった娘、名前なんて言ったかな?」
「エリちゃんですよね」私は缶コーヒーを手渡しながらいった。
「そう、エリちゃん」と大友さんは満足げにいってから、缶コーヒーに口をつけて天をあおいだ。
「エリちゃんってイイよね。かってない明星だね。心躍らせるポエムだね」大友さんは誉め言葉をおしまなかった。あたり一面にコーヒーの液を吐き散らしながら、熱弁をふるった。そして口を拭いながらいった。
「でもね、松井くん『美しいから好きなんじゃない、愛しているから美しいんだ』よ」
「えぇ、そのトルストイの引用は前にも聞きましたけどね」
「へぇ、ふうん、あそう」
大友さんは私の奇襲を楽しむように、ゆとりのある発言でこう切り返した。 
「いやぁ、俺はただ君の神輿に調子をのせようとしたんだけどね。これが恋というものか、これが幸福というものかという。祭を盛り上げるためのね」 
「そうですか、私はてっきりご自分の感情を裏書きする経験則かと思いましたけど」
「そうか、してみると、それは経験であって、事実であり、理論でもある。つまり友達以上の何ものかだという僕の理論は当たっていたわけだ?」
「自分と他人とを区別してくださいね。誘導尋問ですかそれは?」
「なるほど誘導、それはいい思いつきだ。優しい男性の誘導を望まぬ者はなしとね」
およそ狡猾とは言いがたい応酬の末に僕等は顔を見合い笑った。しかし腹の底では女性をめぐる危険な兆候にむしろ穏やかではなかった。二人の友情はいくぶんの距離を保ちながらも、その方向を警戒する帆船のように呼応していた。そこには双方の自由を認め、尊重するほかに、お互いがお互いの働きに期待しているところがあり、それが自分の将来の役に立つとふんで舵をとっていた。私は彼を下書きの教師と思っていたし、大友さんは私をアイディアの種になると考えていた。そうして、どんな馬鹿でも使いようだと腹に含むことが、単なる上下関係を超越した友情の凪いだ流れを保つ秘訣だった。

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