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ARE YOU(15)

エリちゃん。先ほどのお電話で、きびしく言われた時には、正直君の言っていることの矛盾している点への批判が、まず先にのぼってしまったのですが、後になってよく考えてみた時、自分の我が儘な点が多々あったことに気付き反省しました。ただ一か所だけ、気にかかったのは「訳わかんない、小西くんって、大友さんより、訳わかんない」という君の一言でした。今朝まで徹夜で、そのことについて一考していました。しかし、正直、さっき電話で話したように、まだ自分のやっている仕事に自信がないので、君の支えなしにはやっていけない。いつまでも傍にいて助言して欲しい。本当は君がここにいて僕を慰めてほしい。私は愚かな男ですが、あなたを愛しています。

星がふるえ、風がさわぐ夜だった。私は自分の苦しみを感じずに夜を過ごそうとマンマのアパートを訪ねた。福富荘という名称に完全に名前負けしたボロの階段を上り、しめった新聞紙の山をまたいで、ベルを鳴らした。マンマはドア越しに目をこらして、NHKの徴収でないことを確かめてからチェーンを外した。中に入ると玄関につながった台所は暗かったが、奥の部屋は灯りが点り、描きかけの絵が立て掛けてあった。マンマは布団を丸めて、私が畳に腰かけられる場所を空けた。私は軽くおじぎをしながら座った。
「めずらしいね」とマンマは云った。
「うん、この頃、眠れないんだ。お茶はあるかい?」
「うん、ある」
マンマはテーブルに粗末な茶碗とペットボトルの紅茶を置いた。私はお礼を言うのが面倒臭くなり、またおじぎをした。マンマが自分の湯飲み茶わんをひねくり出した時、思いがけない人がドアを開けて入ってきた。私とエリちゃんは見つめ合った。マンマがいぶかしげに二人を見つめる中で、エリちゃんは視線を床に落として、その場にゆっくりと腰を下ろした。私はその一瞬ですべてを理解した。マンマは何も知らないらしい。「小西さん、タバコ一本あります?」と尋ねてきた。それきり私は切り出す勇気をくじかれてしまった。どうしたら、この場を無難にやりすごせるか、それが私のそのときのぎりぎりの課題だった。
エリちゃんの横には、むっつり押し黙って無理に話題を探そうとしないマンマがいる。私がエリちゃんと挨拶をとりかわすと、マンマはタバコに火を付け喋りだした。
「僕は心配していますね。なまぬるく育った日本の美というものを」
「温室育ちということかい」私はとりなすように尋ねた。
「反対ですよ、日本の美は降ってわいたようで底が知れています。僕はアニメ文化の泥棒で何が悪いという日本の美を心配しているんですよ」  
「日本美術は西洋ではまずない育ち方をしたからね」
「そうかもしれません、しかし、西洋の安っぽい改良だって混ざっているから、日本人は自分自身の感覚すら正確に理解しているか分かりませんね」マンマは美術を愛しているが故の態度と厳しい顔つきで腹蔵なく思うところを述べた。
「そうだね、日本人にとって美は、切なる欲求というよりは、あの『パリスの審判』のように、むしろ外圧と内発の優柔不断な混合なのかもしれないね」
「パリスの審判?それぞれに自分が一番美しいと主張する三美神のいざこざが、人間のいざこざを生むあの話ですか?」
「うん。美とは正義なのか、力なのか、それとも愛なのかという問題に直面するパリスは、そこで、とりわけ人間的な決断をする訳だけど、そのことがきっかけで、国と国とが対立し、トロイア戦争へと発展していくという話だよ」
「美とは何かと問われたら迷わざるを得ないけど、自分の好きな物だけは自信を持って言えますね」マンマは真剣な様子で云った。
「女神のひきあわせで、パリスは恋に落ち、不実なヘレネを正妻に迎える。今日のわが国では、それを不倫と呼ぶけれども、もしそれが新しい血を入れるためだとしたら、これを種の繁栄と呼ぶ人も少なくないよ」
エリちゃんは、けげんそうに私を眺めた。顔の反応で判断すれば、本人の許可なしに表情が変わることにマンマも気付きそうなものだが、彼はあまりに女性というものを知らなかった。そればかりか、女性らしさというものを現象ではなく本質的なもののように考え、おしとやかに言葉を呑むとか、美しい詩を読んで胸をときめかせるとか、そういった馬鹿げた社会通念を19世紀の文化財として把握することがなかった。そして、どうかすると彼女の微笑や好意ある所作を真に受けるだけでなく言わないことまでも勝手に読んでいるようでもあった。
私はマンマと女性について話し合ったことはないが、共通の点はないと直感している。私は三人の姉を持ち、その圧政のもとで女性らしさというものが先天的でないと身をもって経験したからだ。エリちゃんの考えは私に伝わっていた。私はエリちゃんのすべてを好いていたので彼女の眼つきからすべてを正しく理解していた。そして、まだまだ有用な一個の男子だという矜持を保っていた。さもなければ、いったいどうなるのだろう。私の抱いている愛は。
「でも、そのおかげでトロイアの国はさんざん掻き乱され、敗戦どころではない被害を受けたんですよ。これは個人の愛情と社会的な義務を、もっとはっきりいえば恋愛か愛国心か、どちらをえらぶかというモラルじゃないですかね」
「たしかにパリスのやったことは自分勝手なだけじゃなく人に迷惑をかける行為だったかもしれない。でも正義よりも権力よりも愛を選択したパリスの審判は、その行為自体が善悪の問題ではないと思うな。ある判断をして善いか悪いかはすでに決まっていて、好むと好まざるとにかかわらず選択の前に立った人間をして服せしめる力。それが美であるというエピソードだよ」 
「恐ろしい話ですけどトロイア戦争は神が行った人口調節という説があるらしいですね。実際、出戻りのヘレネは大した御咎めも無かったのに、神の庇護者に暴言を吐いた兵士はその末代まで呪われたらしいですから。慈悲深い神のイメージが出来ていない時代って恐ろしいですね」
「まぁ、この話には救いがないね。でも、戦争なんて、空から見下ろす視点から見れば、そんなもん、生命に割り当てられた自然淘汰なんだからさ。いわば神の力と逆説的な摂理は紙一重だよ。パリスはわが身に託された自由を犠牲にすることも知りつつ愛を追求する女神の提案を受け入れた。だから僕はパリスの審判を支持するんだ。人は愛と切り離された美を持っていないんだからね」
「たしかにそれはそうですけど、文化も芸術も発達した社会で行われた悲惨な戦争を前にして、女を口説け、どの道は死ぬんだからなんて言えるんですかね」
「うん、パリスの選択は、当時の、いや現代の社会状況としても、言語道断、面食らう行為ではある。だけど、なんというか、パリスはとりわけ人間的で、ちょっと共感してしまうというか、つまりギリシャも日本も人の世というものはかくのごときものではなかろうという気もするよ。人類が共同生活をはじめてから不適切な情事が抑圧されるのに反して、芸術は特殊な美を生み出してきた。生来の自由思想家や、根っからの色男にとっては、個性を捨てた生ぬるい境地は、どんな場合でも毒なんだろう。パリスの審判は、いわば日本の美と同じで、モラトリウム期のギリシャ神話なんじゃないかな」
「そうですね、働かないで食べるのはよくありません。やっぱり開拓の汗と床ずれしない理論ですよ、それが出来れば、僕は日本を認めますよ」
マンマにとって正しいのは自分一人で、世の中は不正そのものなのだ。どんな貧困に窮しようとも、マンマは戦いを挑む。そこには勇ましいところも、華々しいところもない、平凡で地味な絵を描くという作業だ。しかしマンマは芸術の力を信じていた。なぜなら彼自身が芸術に救われたからで、そのことに対する感謝の念をうまく伝える為には、まず自分自身が熱烈に信じる必要があったのかもしれない。むろん彼が信じる必要があると感じたのは迷信のようなものだったが、彼がそのような迷信におちいったのも、まんざら理由がない訳ではない。マンマは予備校時代に宗教にはまっていた。凝り固まった男だったが因果応報というものを本気で信じている節があった。

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