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ARE YOU(8)

ただ、いかに憧れの対象であっても「美しい」ということだけで絵が出来るわけのものではないことは明らかである。エリは北海道の風景に心打たれた。それは抽象絵画に比するものだった。ならば、その源泉をたしかめないでは「イイ」という範疇から一歩も出ないのではないか、というような考えが私の野心に割り込んできた。「イイ」という意味を共有し「イイ」という呼びかけの中にどのような共通の認識をとらえるか、つまり、客観的基準になぞらえて形容し語ることも評論という現象の本質ではないか、という気がするのだ。
私がこれからしようとするのは、その「イイ」の認識を深めようとする試みだ。その中心となるのは個々の作品の検証であり、狸小路エリの「イイ」の値打ちを私自身がもう一度、再認識する作業だ。あるいは、その中から発見というなんとはなしに胡散臭い御託が顔を出すかもしれない。しかし、読者はそれに惑わされず、あくまで評論家という立場の思い込みと笑い受け流してほしい。何となれば少しでも新しい見解にたどりつくことが評論家の使命だからだ。
エリの一つの到達点である北海道の風景において、近代的という意味を含めて抽象という言葉を使うのは誤りではないにしろ適切ではない。たしかに「夜明け」の中の色と形は画面に占める大きさによって、抽象的なバランスを見せているのだが、その真価は明けていく夜を惜しみながら傾く家の表情ではないか。ところで家が傾いているというのはわけのわからぬ、しかし大きな意味のある問題だ。もし画家が直立しているのなら、こんな表現はありえない。たとえ首を傾けても、その動きを脳が差し引いて補正するからだ。しかし、もしこれが写真で撮影したのであれば傾くという原理にも納得がいく。野外での撮影だ。深読みすれば風の影響で手ブレが起こるのではないか。どうだ、これはホームランだろう。どんなもんだいの面構えは自分に落ち着けと言い聞かせても隠せない。しかし何者かがそんな薄明りの中で、家々がこうもはっきりカメラに写るだろうかとつっこんできてホームランは闇に消えた。早合点なのだ。やはり私には読者の関心を繋ぎとめるような新しい意見は吐けないのだ。かといって人に聞かせるほどお世辞は上手くないし、ひどい話だがいったいこれが評論なのかどうかという話になって吊し首という判決に相成るのではないか。頭を丸めインドへ渡り菩提樹の下で悟りを開こうかしら、いや、評論とはたとえ誰がどう言ったところで、各人が「本当にそうだろうか?」と考える必要があるのだとそういうことにしておいてこの場はお茶を濁すことにしよう。どうだ、これが器用貧乏な評論家の実力なのだ。
さて、一般的な先入観では狸小路エリの方程式は解けないのかもしれない。個人的には作家の言葉のみで絵を判別することにはあまり気が進まないが色と形の探求という公式だけではうまく説明できない答えがあるのは確かだ。近代日本の美術が遠近法や明暗法から離脱したことによってその近代性を獲得したことは私も認める。しかし、その進歩史観だけでは諸個人の自由を抑圧する理由にはならないだろう。われわれは狸小路エリのやり方を称賛しようではないか。内的な必然性や、西洋の受容の仕方や、なんやかんやを狸小路エリに当てはめて定義しようではないか。たとえば小説という呼び名で援用される理解も、どれが事実で、どれが架空かを見定めることはできない。しかし、それが一見バカバカしく見える事でも、こういう立場からの解釈というものは非合理的な思考の一例として評価されるべきものなのである。

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