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ARE YOU(6)

このへんでやめておくが、以上は、学生時代の活力にみなぎった私で、なんでも絵を描く対象として物を見るという姿勢が現在とはひどくちがっていた。手前勝手というものは誰にでもあるものだろう。人は自分の物差しで絵画を観て、理解したと感じた時うれしくなる。時代の意識が強くしみこんだと思われる絵画だったら、こんなにも○○風になっていったと感じ、無限定に広大で細分化された美術の中に、お決まりの発展段階説をとなえ、様式の変遷というものを一本の筋の通ったものとして考えたがる。ところが、私は近代絵画というものは、あらゆる様式がなだれ込んだ中の、ほんの一握りの典型的な特徴なのだと美術館に配列される画家たちの作品を通して痛感した。自称評論家としては、あわてざるを得なくなった。私のむき出しになった野心と希望的観測の方程式は、エリの膨大な作品の中から、とくに理想的な抽象化に沿った数例を挙げたのにすぎない。私が学生時代には、なんでも絵を描く対象として物を見ていたと書いたが、私はいわば発見を強いられた評論家の眼でエリを見ていたのかもしれない。私たちは眼に見える絵画それ自体ではなく、自分の必要とする考え方にしばられる。つまり、どんなものでも何かそれに対する自分の在り方によって心にあらわれる像は異なるのだ。大きなため息をつかねばならなかった。おそらく物を観察しない抽象はいやだが、説明的な部分は排除したいというのがエリの姿勢ではないか。
ところで、画家は並行的に二つの時間の中に生きている。その一つは先達から受け継いだ伝統であり、もう一つは今生きている時代だ。時代とは画家が常に意識して考えさせられる永遠のテーマではあるが、自分の物の見方を確立するためには、時代をさかのぼるという生き方も大切で、むしろその方が効果的な場合もある。エリにとって、それは子供時代の記憶ではないだろうか。故郷を離れ、日常のひっかかりを失った眼に、本来の心のありようを失っては北海道の風景は面白くなくなる。創造とは何よりもまず認識の独自性だ。そして、それは幼少の頃から芽生えてきた素朴な表現に基本となる創意があるような気がする。砂場で土をもり、適当な場所に石と木の枝で家をこしらえる。あるいは広告の裏にクレヨンでした落書きもそうだろう。それは、この上もなく幸福な気持ちにひたらせてくれる自分だけの世界だ。時代の流れとは隔絶した北海道という地に住んだエリには、心の中に記憶していた一番重要な手がかりが形は変わっても依然として残っていたということなのだろう。手術で足を切り落としても、その痒さには手を出したくなるのと同じように、記憶という形のない足で大地をふみしめ、実在のない支えを使って立ち上がろうとするのは画家としての本能なのだろうか。ともあれ、時代は時代として、伝統は伝統として存在するけれども、北海道を楽しんで描くためには、その基本的な素材はほうっておいて、一般的な現象としてのパノラマをできるだけ眼にくっきりと焼きつけるだけでいい筈だ。この、なにがしかの衝動をはらんだ単純な美化は恋に対してもいえるのではないか。このことに気付いたのは大学生活も終わりに近くになってからだった。

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