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ARE YOU(16)

エリちゃん。先日、お電話で話しておられた「突然ですが、ほかに好きな人が出来ました」というお話ですが、僕としては何とか思いとどまってほしいというのが本心です。しかし、それが本当なら仕方がないかなとも思いますが、どうか、その心が変わってくれることを願っています。       

四畳半のアトリエには、絵の具や、筆などが散らばって足の踏み場もないほどだった。冷蔵庫も暖房もないのに、水出しコーヒーのポットや靴の中敷き乾燥機があるのは、マンマの思想の不協和音をインテリアが正確に物語っているようで可笑しかった。何がエリちゃんとマンマを結びつけたのか。こんな風に表面だけでも落ち着いて座っていると、不意に自分の知りたくない疑問を育てようとする意識が私の心に働いてくる。
たしかにマンマは誰もが彼のように絵を描きたいと思う生徒だった。バイトを終え、どんなに疲れていても学校は休まなかった。しかし、そんなことは彼にとってものの数ではなかったと思う。有名な画家の絵を「買ってくれ」と駄々をこね、母親を困らせることもあったが、イーゼルにかかった絵の方を向いて、じっとうずくまっていられれば幸せなマンマが学校に飛んで行くのは無理からぬことだった。
このことだけでも愛される理由はあるのかもしれない。一生懸命な人間には、美しく偉大なところがあって、それが大友さんの讃えてやまない旧世代の努力というものであった。ところで、大友さんは時間に無駄のない生き方を奨励する人物だったが、時間をかけて作られた彼の日課が実際に守られることはなかった。たとえば、絵を描く時間になってアトリエに行くと一匹のクモが出てきた。気分の悪くなった彼は中庭で笛を吹いたり漫画を読んでダラダラと遊んでしまう。いや大友さんにとって遊ぶというのは心にもないことで仕切り直しと言わねばならないのだが、その仕切り直しが終わり、イーゼルの前に腰かけると、今度はクモが二匹出てきた。すると彼は「これは駄目だ」とアトリエを後にするのだ。いやはや、なんという旧世代の努力だろう。それはともかく話を続けよう。
「現実と接触するルポタージは、資本の要求と政治の圧力との二重の拘束に押さえつけられ、絵画の主流からは置き去りにされていた気がしますね。絵画は一種の娯楽なのだから、ただ美しく見る者をうっとりさせ、日ごろのうっぷんを忘れられればいいという論法ですよ。だいいち社会派の絵は少しも売れないし、心の慰謝にならないではないか。おそらく、そういって、ただ大衆をいい気持ちにする思想に飼いならされて、あげく骨抜きにされたのが日本の美術界だったんじゃないですか。社会の問題というと何か触れてはいけないタブーのように思い込む、そのことにこそ芸術の問題があるんでね。彼らは分かっているのかな「テロ」や「環境の破壊」について、芸術家が芸術家としての発言をやめたら、人類は芸術に愛想をつかすということを」
マンマの批判精神は大友さんのように連想が盛んなおもしろさは無かったが、当を得た几帳面さがあり、時にはやかましい異議を持ち出して自分の意見に固執した。それは、かつて宗教をしているというだけで誰にも相手にされなかった心の傷が、必要以上の警戒心を生んだ結果だろう。誰かがブレーキをかけないと、相手かまわずというか、それが見えない相手でも宣戦布告し、さんざん打ち負かそうとする変な状況を生むタイプだった。  
「でも、それは政治権力に対する芸術の側の抵抗力の弱さという尺度で考えるから、とくに、そう感じるんであって、たとえばピカソの青の時代の絵も、運命に逆らうことを止めて口に糊をした人達が、何をしようとしているか、何を考えているか、そのことを感じてもらう方が社会を裁くより大きなウェイトをしめていると思うけどな」
興奮の面持ちのマンマに私は反論したが、そもそも、こういう話題は議論としては盛り上がるが、正しい意味で相手を説得するのは困難である。顔を赤らめるマンマを見て、やれやれ大変になったと思い「たとえばね、これはたとえばの話だよ」と気遣わしい調子で私は念を押した。 
「いや違うんだな」とマンマはそこへ口を入れた。
「小西さんのは、戦後の日本人の思想と同じわだちにはまり込んでいるんだな。西洋万歳という、自分の力では抜け出せない例の図式ですよ。だいたい日本の美術は心理的な表現とか独自の表現とか、そういう僅かな価値基準にしかコミットしない、画一的な言葉でひっくるめて、―内容のそぐわないものはバッサリと切り捨ててしまう。でも、まず我々は心理という言葉を定義すべきですよ。やけっぱちになったり、あげくのはてに心をマヒさせて、自分の世界に閉じこもるのが矛盾に満ちた人間の妙な心理でね。つまり心の不幸を感じるのではなく感じさせられているということが青の時代のそのものズバリですよ。だから、まず我々は人間について話すべきですよ。そして、それが社会的な問題であることを予測した上で、もともとの人類の相克(そうこく)から探るべきですよ。事故の緊迫にはらはらしながらも仕事へのゆるがぬ思いを掘り起こそうとすることも、強要されてやむなく装備をまとい作業に従事することも、人はぎりぎり限界の場に投げ込まれると運命の傀儡(かいらい)に気付くものです。そんな操り人形と化した自に人は奴隷と異ならぬ不幸な現実に目覚めるという訳です。そして賃金を与えて悪魔をおしつけられるような社会の掟に資本主義の核心までが露呈してくるのですから、これは悲劇を通り越したサスペンスですよ。いいですか、たしかに彼らに苦役を与えるものとの構図を一方が被害者で他方が加害者であるというような単純な見方はできないというのも一理あるかもしれません。道義的な大義のための少数の犠牲は種の保存に必要だというやつですよ。しかし、このような主張は人間を巨大な社会の中のちっぽけな歯車意識をもって消費し流れ作業のベルトコンベアにのせる階級にとって都合のいい理屈です。人間は機械でなければネジやクギでもありません。人間の本質とは人の命を軽く見る歴史であり、それを担うのは第一に権力者の道徳であり、第二に不公平を正当化するために練り上げられた合法的なシステムです。この本質をどう描くかは画家次第ですが、歴史とは傷を忘れないためのものではないでしょうか。全体的な利益のための局部的な苦痛は忘れていい筈はない。そのことを明らかにすることが画家の務めではないでしょうかね。ところで「したい」と望んで始めた仕事がだんだんと形を変えて、課せられたつとめを果たすことで社会を建設する喜びを見出すこともありますが、社会の問題に対して権力者に歩調を合わせ、関心が金儲けに向けられている画家は決して自分なりに問題を消化せず、自分の目を覆って現実を描こうとするので自分自身の視点というものを放棄していますね。それは小西さん、あなたのことですよ」
人はどんなに気兼ねしないでいても、他人には譲り得ない、また譲りたくない事柄というものがあるものだ。マンマにとってそれは社会の健全化の推進と神に背くエネルギーとの決別であった。たいがい彼は言いたいことを言い終えると大切な思想を人前で振り回したのを恥ずかしく感じ、自分のような馬鹿はこの世にはいないと一人で勝手に決めつけて、悲しく切ない表情をするのだった。だったら、こんな思い切ったことは言わなければよいのだが、そこが無愛想な男ではあるが、どこか愛嬌があるマンマの魅力だった。しばらくの無言のあとマンマは、つもり違い六か条と書かれた湯飲み茶わんになみなみと紅茶をそそぐと一気に飲み干し、Tシャツで口をぬぐった。たまらずエリちゃんが会話に入った。
「マンマ君、お茶の飲みすぎで頭がおかしくなったのね。君はもうこれ以上飲んではいけません」 
マンマはあっちの方を向いた。エリちゃんは覗き込むように見詰めた。さすがのマンマも恥ずかしそうに両手を広げて言い過ぎたという身振りをした。私は信念の上にあぐらをかいたマンマの不躾な態度をこうも鮮やかに変えたエリちゃんの手腕に見とれていた。彼女の笑顔と機転で巧妙にもマンマが手なずけられているのを見てうらやましかった。マンマは幸せも幸せ、彼女につき随って歩いて行けば目的の場所に辿りつけると安心している。一本気な青年がとびきりの勇気で絵を描けば、二人は、未来は、果してどういうことになるのか、そんな予想をして私はうらやましく思った。私は壁にかかった千代の富士結婚記念の時計を見上げた。そろそろ帰るべき時間だと考えた。

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