DO TO(6) 「あれから好きな画家は河原朝生」

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スポットライトに照らされた展示室はしーんと静まり返っていた。かすかな足音は響いていたが、この絵が周囲の物音のすべてをかき消しているようだった。私は別の好奇心で気を変えたかった。屈辱の反動から立ち直るきっかけがほしかった。私は後ろをふりむいた。そして誰もいないので安心した。私は考え事をするとき、身近に人を置くことを好まなかったからだ。ただ自分の過ちにはこれ以上メスを入れたくなかった。あの感情の落とし前には距離を置くようにして、先ほどの女生徒とのやりとりを、人が近づく前におさらいすることにした。  
もちろん、これまで母親以外の女性とは個人的な関係をもたなかった内気な私が、初対面の女性を相手に会話を交わしたことは興味深い出来事だった。ごく些細な言葉のやりとりだったが、互いに反応しあい展示室に響いていた。私の心のなかに何かを残した彼女の独特の口ぶりも、いつのまにか矛先を変えて、心地よい呼吸となって、美しい間隔を整えて存続していた。緊張の解放からくる疲労を感じることもなく、何かしらの予感も感じたが、とりあえず出だしとしては悪くなかった。なにしろ、普通ならとうてい近づきえない魅力的な女性とさりげなく言葉を交わすという遊戯を造作もなくやってのけたからだ。
ただ喋っていても不思議と窮屈な感じはなかった。おそらく癪に障った会話が感情のテコになって、明確には自分の気持ちを知ってはいなかったからだ。頭も無謀な考えに目覚めていなかった。手の届かぬ場所にある花には興味を示さなかった。頑張る気が無いので自然体でいられた。おそらく私はまだ彼女に対する好奇心を気づかずにいた。、
すると、他の絵で立ち止まっていたその女性が、戻って来た。そして微笑みながら「もう授業は終わりね」と事も無げにいった。そして「なにせ仕方ないわよね、アサハラアサオじゃね」と共犯の微笑みを投げかけてきた。 
ほんの挨拶に過ぎない彼女のユーモアに、こじらせていた正直な気持ちがはじけた。自覚こそしないが、いとも簡単に私の好奇心を刺激していた。
私はうちとけた同意を示して微笑んだ。展示室の静かな空気を吸って僕らは足元の位置を変えた。そして、つれだって歩き出した。
あの頃、クラスメートの中には狸小路エリを敬遠する人もいたが、私は彼女とよくお茶を飲むようになった。

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これは、ある画家の半生の物語です。ある画家とは狸小路エリで、彼女が北海道を訪れ、悠久の自然に魅了され絵を描くという設定でストーリーが展開していきます。また、小説を車軸にしながらも、松井宏樹による写真と、彼女にまつわる展示も、二つの車輪となってHOKUBU記念絵画館で連動します。

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