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ARE YOU(3)

大友さんは何を食べるか思案顔だった。話しかけるわけにはいかないのは、はっきりしていた。目を引いたのはハミングしながら向きを変えるその薄ら笑いだった。大友さんは少しアンテナが壊れているところがあった。不幸の筋をまるで白髪のように頭の上に刻んでいた。感度が鋭敏なだけに、他人の成功にはすさまじい反感を示した。傷つきたくなかったのだろう。だから自分の基準から外れる人間というものを認めたくなかった。それは彼のアンテナに強く反応したようだった。コンプレックスは彼の大切なバネになっていた。
大友さんは悩んだ末に結局、いつものラーメンを注文した。そして「労働者の食い物はラーメンだよな」と言いながら豪快にすすった。どんぶりを傾けて塩分の多いスープを飲んだ。そしてピラフを頬張る連中を見ると他人の個性というものをまるで無視した難癖をつけた。「チャラチャラしたもの食いやがって」と自分勝手な判断を下した。
私はかすかに首をもちあげて、ちらりと大友さんを見た。遠慮のない彼の意見にはっきりとした返事をする勇気がなかった。沈黙が流れた。私はピラフのことは忘れて黙々とカレーを味わった
それから、ぱったりと黙り込んだ真剣な表情に誘われるように僕らはアトリエへと向かった。ごたごたした画材を見つめながらインスタントコーヒーを味わった。アトリエに居たのは僕等二人だけでなく燃えるような眼でキャンバスに向かうマンマが少し離れたところに座っていた。
「どうもマンマには歯がたちませんね、彼にとっての将来とは、目的に向かって努力することだけで、その助けがあれば、将来は不安ではなくて、真剣な夢に、ぐっと重みがかかってくるのかもしれませんね」私は小さな声で意見を述べた。
「あぁ、彼はすごいね」と大友さんは答え、そして付け足した。「同じ大学にいるのが不思議なぐらいだよ」
お金がなければ働く、そう割り切って考え安心していることがどんなに幸せなことかマンマのずんぐりとした背中が物語っていた。いくじのない沈黙が訪れ僕らはしぶしぶとイーゼルに向かった。今までに何枚絵を描いたかというような一定の努力次第で画家の資格を得ると信じたかった。

話が大変それてしまった。北海道の風景に出会う以前のエリは抽象的な願望と強く結びついた作品を作っていた気がする。そのことは彼女が描いた札幌の風景にも言える。「エリの作品の中には自然と人間が形作る景観を描きながらも無駄な説明を廃したものが多くあります。モティーフは普遍的な色と形にまで単純化され、空と大地に限った構図は、ほとんど抽象的とも言えるほどです」とは、とびとびになるがチラシで書いた私の文章だけれども、狸小路エリの絵は抽象的構成の産物だという意見を持っていた私が、いざ北海道にいったところビックリさせられた。そこはどこもかしこも地平線が続き、狸小路エリの絵が続いているのだ。これこそ世紀の大発見だとそこら中を歩き回ったら、いろんなことが分かった。私はエリが自然の景色の中から抽象的なイメージを切り取っているのだと思っていたが、横につながった目の機能が大地と空を映すためにどこに立てばいいのか。二つの要素だけで成り立つ構図を選ぶとその横広がりの構成になるのだと北海道に来て気付いた。
それにしても世俗的な戯れのない、美しいこの地で自分の居場所というものを確立したら、どういう世界がどんな風に見えてくるのだろう。土地が変わり、逢う人も変わる。故郷ははるか遠くにあって心に浮かぶこともなく月日は消耗していく。しかし実はこれが生活の特色ではないか。生活は単調だが空の色や大地の匂いには新鮮な驚きがある。そして日々の繰り返しからリズムが生まれ、詩のようなものが生まれてくる。つまりエリ流に言うと「生活の詩」であるが、気まぐれな天気やユーモアや心の温かみを人生の意味にまで拡大することで多くの支持を獲得しているのではないか。白日の太陽のもとでも、青白い月光のもとでも、静寂に包まれた北海道は美しい。ともあれ現代人の賢しき装飾とは無縁で多分に単純化されたエリの絵画には、どうやらもう少し説明がとまどりそうだ。その理由は評論家になる前と評論家になった今では物を観る眼に非常な差が出てきたからである。これは告白ではない。小説である。

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