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ARE YOU(11)

「狸小路エリは、あの福島の事故の後、精神不安に陥りました。彼女が社会的な関心を深め、その発言のために絵を作りはじめてから、平和を乱さない自然の美に開眼するようになります。それは、現実は理想的に出来ているものではないが、前向きな希望を祈ろうという、人間にとってふさわしい態度を伝えるというものの気がします。彼女の絵画は科学の進歩に手を汚した人間の手をやさしく握り、感情の輪郭をやさしくなぞるようです。それは、私たちに好ましき世界へと変えようとする作家の理想に共感し、その世界とかかわっていきたいという反応を引き起こすものです」とチラシの文章は締めくくるのではある。
エリの絵画は、北海道の日常的な生活の詩から、それにともなう心象の音楽を伴奏している。それは、もはや、当たり前のものとなっている近代の意識を、色と形といった要素で構成するだけでは騒音にすぎないのだと説いている点で、絵を描くということの本質的な行為ににじり寄るものといえる。ある人はエリの絵を十分に抽象、十分に具象だと言うかもしれない。しかし、もしエリがありきたりの近代絵画の中であまり目立たずにいれば、世間も充分な評価を下すことはなかったかもしれない。所詮、高尚な、お芸術の評価とはそんなものなのだ。こんなことを言うと反感を買うのだが、世の構成員は人生のあらゆる慰みごとに忙しく、芸術に対する評価についても、誰々はこう言っている、といった類なのである。エリは北海道の風景に心打たれた。それは抽象絵画に比するものだった。だからといって、それを味わうためには、まず近代を知り美術史を学ぶ必要があるかというと、そういうことではないだろう。抽象を知らなくても、近代を知らなくても、エリの絵画を楽しむ資格はある。そして芸術について質問を投げかけられた場合に特に回答を求められるのは、「いい」か「悪い」という二択ではないだろうか。 
さて、ここで評論の本筋とは少し離れることをお許し願いたい。むきになって業界の権威主義を攻撃しようとしたが、私などの謀反につけいれられる共同結社ではない。それに、ひょっとしたら私は、顔料につなぎの油を混ぜて布に定着させただけのもの、その呆れるほど利益率の高い商いの片棒を担ぐようなもので、一蓮托生の同志たちを裁く資格などまるでないのではないかと思うのである。

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