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SUNNINESS (8) 「だから平野遼を評論する」


すると「あなたの評論は…」と彼女が私の背中に声をかけてきた。私は足を止めた。そのとき私と彼女の視線が重なった。私は自分に魅力がないことにはわかっていたので、じろじろ相手を見ることは避けねばならないと感じながらも、視線を女性に向けずにはいられなかった。私は返事をせず、というより返事を忘れて彼女を見つめた。その一瞬で彼女は何かを悟った。眼の中の動揺に気付いたようだった。しかし彼女はその心の色を痛いほど判った上で「この絵をどう思います?」とやや間を置いて尋ねてきた。彼女のなにかを探る面持ちに私はまた何かを云う必要を感じた。
私はいくらか棒読みのような調子で、しかし、きっぱりとした口調で「すごい絵ですね」といった。彼女はすばやく同意した。これは後でわかったことだが、この時、彼女は私の人となりを既に知っていて、明らかに何らかの魂胆があって私を喋らせようと仕向けていたのだった。 
「見るものを威圧する、深いしわのようなものを感じますよね?」と尋ねてきた。彼女のなおも何か聞き出したい様子を見て取ると私は気骨に響く満足を覚えた。 
ただ、こういう場合に屈託なく褒めて興味をあおるのは簡単だが、こういった問いを単なる形式として受け流せなかった私は軽薄な返事が出来ずに黙り込んだ。アーティストの中には、まるで押し売りでもするようにクドクドと説明したがる人がいる。何もかも語りたがるのだ。そういう手合いは職業上の「よいしょ」に聡明ではあるが実際的な損得にはこらえ性がない。ともあれ、ここで私がどちらに出ても、つまり褒めても貶しても、どちらにしてもお茶を濁しそうだったのだ。
一方通行で話が進んでいると、さっきまでカンカン照りだった空がみるみる雲に覆われ、突然、大粒の雨が音を立てて落ちてきた。我々は窓に寄り添い、まるで雨宿りでもするように外を眺めた。暑いさなかのひととき、窓の向こうの若葉たちは元気をとりもどしたようだった。我々は並んでこの景色を愉しんだ。そして雲の谷間から光が差し、青い空が現れたころには二人の間には親密な空気が流れていた。外が白くぼんやりしたのを覚えている。   
「私は生意気でしょうか?」彼女は出し抜けに言った。尋ねているのではない。何かを訴えている目付きだった。
「さっきのことで気が咎めているなら心配いりません」私はこれだけを即座に言い、ぼそぼそした声で付け加えた。
「僕は本当におとなしい方ですから」よっぽど相手のことを信用しているのか、さもなければ馬鹿にしているような言い方に彼女は不意を打たれたのか、まばたきをして、そして笑った。笑いには相手に応じて心を開き緊張をほぐす仕組みがある。
「自分からそんなことを云う人は初めてです。でも意味ありげな当てこすりより、絵を見る目がすべてを物語っている気がしましたよ」と喋る声はあくまで優しかった。
しかし、私は映画のワン・シーンを見ているような錯覚を覚えていた。映画そのものは甘いオセンチだったが、ヒロインの視線が自分に注がれるのは快かった。束の間の予期せぬ出会い。人の心をひきつける言葉。そんな他愛もないことで、一度はひざまずいた心が立ち上がり、ゆっくりだが走り出そうとしていた。それは相手と真正面からぶつかる私の性格を目覚めさせ、何かを得ようとする本能が私を彼女の方へ向き直らせた。  
「私はこう思います。人はあるがままの姿で肉体を描くことはできない。手は胴体から自然に生えてくるものではなく、油を足して絵具をかため、手塩にかけて育てないと構造の力を弱めるからです。やすやすと片足に重心をつけ、やすやすと肩や腰の動きに曲線を加える絵は見ていてつまらないというより、たまらないものなのです。つまり、世間がそれをどうみるかという目安は別にしても、絵画はその場かぎりの思い付きや、技術だけのごまかしでは有機的な繋がりの生気を与えられないということだと思います。こう考えてみると、人体を丸、円錐、円柱に見立てて、外形的な特徴を描くことはほとんど理にかなっていないことが分かってきます。手や足がどこの部分かはわかっても、その手や足が何をするために位置を確保しているのかを知らなければならないのです」
彼女は熱心に耳を傾けているように見えた。私は話しながら、さまざまなことを考えていたが、そのさまざまなこととは次の言葉に集約されるだろう。
「また、私はこうも思います。それは、結局、絵とはその人自身を映す鏡なのだということです。それは個人個人の心に起こる、気まぐれな神話のようですが、それは世間が個性や、地ならしされた様式しか関心を示さないからです。他人の表現を借りるのは簡単です。ただ、これを自分の創意工夫に付け加えるのは誰にでもできることではない。様式の壁をぶち壊し、新しい扉を開くことは騒がれますが、仮に私がある画家のエッセンスを取り出し、その中身を自分のものに書き換えたら、世間はよくあるケースとして知らぬ顔をする。つまり我々はあまりに噂的な関心に一生懸命で、こまごました連結が見分けられず、輪郭しかわからない。同じように、何かとくっつかないように、別の何かをかぶせたこの絵は、内容的に不純物でも、そこが正直であけっぴろげだと見て分かるのです。第一、不器用ですが世間向きのマスクというものが取り付けられていません。それは青年期に見上げた空の青さのように何色にも染まっていないというか…」 
ここまで言い終えたとき私は全身がふるえていた。夢中になって余計なことを口走ったと感じたのだ。そして軽い自己嫌悪を感じた。三浪してようやくこの大学に入った私は常に自分の才能に疑念を持っていたが、それがあまりに能力や容貌といった、考えようによってはその場その場の自発的な意思を狂わせる自分自身の劣等感を原因にしていたので、表面にあらわれるのは常に衝突の原因となる気のてらった藪にらみにすぎず、そのことで真っ先に苦しむのは自分自身だったのだ。
「ともあれ、一年生の絵とは思えません」と私は自分の後を自分でひきとった。 
彼女は強いて返事をせず、やや渋い面持ちでうなずいた。しかし、すぐに「えっ、一年生の絵だと思っていたんですか?」と驚いた眼で尋ねてきた。
「違うんですか?」私は疑問形で答えた。
「これ平野遼の抽象画ですよ、有田先生がいま修復しているんです」
演説をぶった私は恐る恐る絵の方を一瞥した。たしかに言われてみれば、いろいろな点でこれは抽象画だった。誤解を生む原因を詳しく語ることは出来ないが、私は幾度となくこの場面を思い出して恥ずかしさのあまり奇声を発しそうになったことを申し上げなくてはならない。私のこの時の誤解は、私よりその方面に詳しい評論家がうまく説明ということで、処理してくれるだろう。
「なるほど、これは平野遼の抽象画ですね」私はようやく言葉を絞り出した。
彼女は「青年期に見上げた空の青さですか」と云ってから、吹き出したいのを我慢して口をぎゅっと閉じた。二人の間に沈黙の空気が流れた。だが毅然としていた私がバツが悪そうに頭を掻くと、それが弱々しい愛嬌として作用し、彼女が笑い出した。権威失墜の私は笑うどころでなく赤面した。 
「ずいぶんですね」と彼女は言葉をつぎ、まるで打ち解けた頃合いを見計らうように「ところで、マンマさんは確か三年生の何人かで、同人誌をやっていましたよね?」と今度は間違いなくにこやかに尋ねてきた。そのことから会話が続いた。それが狸小路エリと私との出会いだった。


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