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DO TO(8) 「あれから好きな画家は河原朝生」


2018年9月6日 正午

狸小路エリのことを思い出すと切なくなる。恋の再燃を夢見ていたのではない。願望は成就するよりつぶしてしまう方が立派な行為だと思っていた私は、無理矢理に一緒にいたいとは思わなかった。ただ、あの頃のことを思い出すと、連鎖反応で恋心もフラッシュバックしていった。しかし、彼女の微笑みのとなりに私はいなかった。過ぎていく時間が私だけを取り残したようだった。そして、つい思い出してはいけないことまで思い出してしまうのだ。しかし、こういう切なさを取り除いても、私はもう地道な土台の上には立ち上がることは出来ないだろう。自分の仕事の上にいやいや座っているだけなのだ。
私は河原朝生の絵を想像することで気分を落ち着けようとした。絵を考えるのではなく、絵について考えた。ノスタルジックと詩情はそうはっきりと区別されるものではないと思う。ノスタルジックの中にも詩があるし、その逆もあるのだと思う。それは究極のところ自分だけの思い出だ。自分から自分の世界を限定することだ。とにかく、こうして横になり、枕に頭をのせることだ。ぼんやりとした頭と体をなじませるのだ。ゆっくり時間をかみしめると、やっぱり幸福というものが分かって嬉しいものだ。そして河原朝生の画集が手元にあればよい。今日は休日だ。誰にも遠慮をする必要はなかった。  
午後を過ぎていたが電気を付ける必要はなかった。太陽はあかあかと照っていた。光は室内にも充満している。手に少し汗がにじんできた。立ち上がり、窓を少し開けた。外を見下ろすと川は昨夜の豪雨で水位を増したようだった。空気がうまかった。その匂いに深い秋を感じた。人間は空気と水でゼイタクをするべきではなかろうか、と思った。単調だが、しかし余裕のある気分が付きまとっていた。
ふと、今の私の幸福感がとてもシンプルに思えた。私が今の状態に満足していることは事実だ。私の幸福とは青い空と少々の退屈なのかもしれない。だから、思い残すことがあるとしたら、自分の幸福についての貢献がまだ足りないことなのかもしれない。雨の日には少し憂鬱になる自分自身を元気付ける努力が足りない。自分の為というのが不埒な考えだが、あまり長くない人生だ。私は私の時間を使ってもっともっとましな絵を描こうと思っている。河原朝生のおかげだ。実際、河原朝生の絵は人の気持ちをそういう風にさせる絵だ。
枕からわずかに頭を上げて、コーヒーを口にしようとした時、カビくさい画集の匂いが私の手を止めた。これを買った時にはすでにしみ込んでいた匂いだった。ただ、私の手を止めたのは、またしても眼には見えないあの声だった。私は一度だけエリが好きな画家の名前をきいたことがあった。あれはいつだったか。空中にただよう匂いだけが想い出された。ただいくら努力しても思い出せない気もした。あれは暑い夏だった。私は、眼をこらして、本の匂いを嗅いだ。

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