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DO TO(16) 「あれから好きな画家は河原朝生」

私は大学の中で少し浮いていた。あまり幸せではなかった。そして厄介にも真実の恋を欲していた。自分がエリの夫になる資格があると信じたかった。私ははじめて自分の顔を鏡でまじまじと見た。大きな鼻、分厚い唇、貧弱なアゴがあった。そこには見たくない自分の欠点があった。その時、自分に彼女が出来ない理由が分かった気がした。恋する者にとってそれは耐えがたい不幸だった。重大な問題だった。私は原因と結果をなおじろじろと見るようになった。自分の醜男を何倍にも感じ、その正体に暗い洞穴をみるような心地がした。
ただ苦しみは二人を引き離すどころか、近づけたように思えた。私は身なりに気をつけるようになった。そして清潔を心掛けた。有名な画家になってうんと金をもうけ、エリを自分の妻に迎える日だけを考えて努力した。心の誠実さで愛を勝ち取ろうとした。相手を求める欲求と、顔のハンデキャップを挽回する努力はまったく異なったものでありながら、同一の目標の形をとった。美しいエリに対する気おくれにもかかわらず私は彼女に近づき手をつかみたかった。
僕らはライブ会場までのケヤキ並木を歩いていた。内気で不器用な私は手をつなぐタイミングが分からなかった。少しずつ近づき手を差し伸べた。しかし断られはしないかと、心はわなないていた。一方、自分の美しさに自信のあるエリは、わざと気づかないふりでそれを楽しんでいた。からりと晴れた顔で童謡を口ずさんだ。図書館を横切った時、私はついこんなことを言ってしまった。 
「あなた一人で行かれたほうがよいのではないですか?」
「あら、どうして?」とエリは聞いたが、私の腹を見抜いているようだった。
「どうしてって…」と言って私は黙った。
「それじゃあ、兄さんの舞台は見ずに帰りましょうか」とエリは言った。しかし、歩く速度はゆるめなかった。そして、私の手を握った。支離滅裂な拍子をとって手を振りはじめた。私は笑った。少し恥ずかしかったが幸せだった。私たちは親密なムードに浸りながら音楽ホールの建物に入った。
僕らは前もってもらっていた割引チケットを出そうとしたが、受付の女性から有無を言わさぬ調子で正規の入場料を請求された。それは、よほど切羽詰まった客の入りに思われた。中に入ると案の定というか、会場は空席だらけだった。
 我々は最前列に座った。やがて幕の開くベルが鳴った。眺める正面のステージには楽団がいた。ただ正直に言うと、私はこんな自信家ぞろいの男達は見たことがなかった。メンバーはどれも成り上がり風のしかめ面を示して、男らしい冷淡さを最高の羽飾りのように心得ている節があった。髪をかき上げる者もいた。眉根を寄せる者もいた。
そこに、せわしない足取りでマンマが登場して「大友さんはいま眉毛を整えている途中で、あと三分で登壇する」と観客に呼びかけた。奥の方から大友さんの罵声が聞こえた。マンマはすぐにメンバーにそれを言い直して演壇を降りた。アナウンスの手違いはおさまった。
それから、きっちり三分後に大友さんが大物気取りで登場した。大友さんは余裕たっぷりだった。「おう」とか言って入ってきた。そして一通りの挨拶をしてから、自分のことを「町で見かけたら、兄さんと呼んでくれ」と表情たっぷりに言い、笑みをたたえた。見せつけがましく、手を前にさしだして観客に応えた。
そして彼はギターをかまえると指をパチリと鳴らした。そして「生きていくんだ」という曲を歌った。彼の作詞作曲だった。それは、ただ「生きていくんだ」を連呼する、ボキャブラリーの貧弱な歌だった。それは中身のない美文に相当していた。彼は目を閉じて自分の歌に酔っていた。彼は自分をスターのようにみせようして、逆に滑稽に見えることを自認していなかった。


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