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SUNNINESS (9) 「だから平野遼を評論する」


九月の半ばから学校は始まった。学科も本格的な授業に突入した。自分で自分に刺激をあたえる日々がはじまり、将来のままならぬ集団のなかで追い越し、追い越される、あの生存競争が私の心をかりたてた。うまく描けない不安は消え、行動しなければならない緊張がせまった。それは肌に直接迫る圧迫だった。過酷な日々だったが、私はひたすら前進した。そして苦しい前進のはてに蓄えられた英気が、ようやく自分の生活態度を変えた、と感じた時に、私はその重荷を背負った姿に凛々しさと喜びを感じていた。 
私は陽光を浴びる庭の木々を眺めた。スズメがのどかな声で鳴いていた。空気は涼しくて爽快だ。妄想にふける必要はなかった。テーブルの上にはページを開いたままで置いてある平野遼の画集とタバコの袋がある。そこには私の心を占めるものがたくさんあった。私は一本取り出し、片手で火を点け、ゆっくりと吐き出した。光の輝く午後の大気の中に上った煙は窓から吹く風に流されていく。そういえば、なんとなく風も秋めいてきた。部屋の中はいつもにも増して澄んだ匂いに包まれた。      
私が画集の方へと身を乗り出したとき聞き覚えのある足音が木造アパートの狭い階段を揺らした。足音が台所の横の戸口で止まったとき、私はすでに玄関のチェーンを外していた。季節外れの風鈴がさわやかな音を立てた。 
「おはよう」といいながらエリは台所とつながった小部屋を抜けて四畳半の日本間に入ってきた。
「冷たいお茶にするかい、それともコーヒーに?」と私が尋ねると、彼女は黙って座布団に腰を落とした。
「どちらもいただきます。お茶を飲みながら昼食を食べて、それから一服もするので」と応えた。さらりと受け答えをした声はまだよそゆきだったが、その後で疲れたような微笑を浮かべ、その微笑をくずさずに私を見た。そして画鋲で吊るされた風鈴に気付くと「そよ風がきもちよくなったわよね」と云った。
私は粗末なテーブルにグラスを置くと、冷えた麦茶を注ぎながら「おかげさまで夏も終わりだね」と云った。エリはテーブルの上の画集を注意深く取り上げ「学校の課題?」と尋ねてきた。
「いや、個人的なお勉強」と私は返事をした。
「というと同人誌の?」さらに彼女は問い返してきた。
「まあね」と応えたが、楽しみにしていた時間を目の前にして私は少しじれったそうに、そして横眼づかいにエリの肩にかかったカバンを見やった。エリはその視線をとらえたが、それは沈黙のうちのことで私にはそれが癪に障るというか、目を向けていながら構ってくれていない実感として伝わったので愛想よくするのが空しくなり横を向いてしまった。ただ目だけが肩身の狭い自分をはっきりと物語っていた。
エリは静かな眼差しで喉を潤すと、まるで私の態度に申し合わせたようにカバンの中からビニールに包まれたパンを取り出してテーブルの上に並べた。その中から、エリは豆パンを、私はフランクフルトが挟まれたのを選んだ。消費期限の切れたパンは販売には回されない。捨てられるだけだ。売れ残りを持って学校近くの私のアパートに寄るのがいつしか彼女の日課になっていた。私にはまるで予期もしないことだったが彼女の脳裏に空腹そうな私の顔が浮かんだのだろう。あるいは私が社会的には浮かばれそうもない人間だったので物好きにも彼女は同情心を起こしたのかもしれない。この訪問に私は最初面食らったが、今ではむしろ生活の一助として歓迎していた。
もちろん、これは愛情というより助け合いの大きな信念に貫かれていることは私にも分っていた。お互いの意向をかぎあうまでのこともなく画家という一致した境遇の単純な持ちつ持たれつの関係ではあった。彼女は朝七時から立ちっぱなしの状態だったので学校前に一息つけるこの場所での休憩は、一応は合理的なものであったのだ。彼女にとって一日の生活はバイトと絵を描くことだけで精一杯だった。彼女は活動に必要な力を蓄える目的でここにやって来ていた。

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これは、ある画家の半生の物語です。ある画家とは狸小路エリで、彼女が北海道を訪れ、悠久の自然に魅了され絵を描くという設定でストーリーが展開していきます。また、小説を車軸にしながらも、松井宏樹による写真と、彼女にまつわる展示も、二つの車輪となってHOKUBU記念絵画館で連動します。

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狸小路エリが平野遼の作品に出合い、最初は難解な抽象画に抵抗しながらも次第に影響を受け論文に取り組むことになる過程を描きます。それは物語の悲劇が彼女自身の過ちから起こったものばかりでなく、社会の中でのさまざまな理由から生まれたものだということを明らかにするものです。

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