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DO TO(17) 「あれから好きな画家は河原朝生」


私はじっと聞き入っているふりをしたが、内心は吹き出したいのを我慢していた。ただ隣を見ると、エリは少しでもコンサートを盛り上げようと拍手していた。私は自分の人格が真面目でないのを反省した。
歌が終わると照明が低く落とされた。すると大友さんは身の上話をはじめた。父親が納沙布岬で海を見ながら大便をしようとしたら、友人から「見えているぞ」と石をなげられ、立ちあがった反動で足をとられ海に転げ落ちた話をした。彼にとってそれは秘密であってはならなかった。彼はギターの弾き語りをした。「自殺だけはやめよう」という曲だった。彼は目に涙を浮かべていた。ここまでの流れは完ぺきだった。それは大した効果を及ぼした。誰もが黙りこくっていた。眼鏡を外す音さえ響くほどだった。大友さんの演出は観客の全視線を引き付ける重力があった。そして大友さんの歌も中々どうして良かった。大学のトイレで歌い、何度も注意された成果が出ていた。おそらく鏡を前にしたポーズの練習のたまものだった。
ただ、予想していたが失敗もやらかした。大友さんは歌うのに一生懸命で、勢い余って上着を脱ぎ棄ててしまった。しかし、上着の中には、弦をつま弾くための爪と、最後に涙をふくためのハンカチが入っていて、その重要な小道具のために、一度脱ぎ捨てた衣装を拾いなおして、身に着ける羽目になった。どうにも間が悪かった。その場を取り繕うために、彼は笑ってごまかそうとしたが、他のメンバーは少し間隔をとるように、黙ってそれを見ていた。 
それでも大友さんはすっかりのぼせていた。二十四時間営業のコンビニのように胸襟を開いた調子だった。父親が公然わいせつの罰で、今は極寒地獄という場所にいるという話を始めた。そして感涙にむせばせながら地獄について語った。会場は何かしっくりこない空気が流れはじめた。大友さんが地獄のディテールにこだわり始めると、聴衆の全視線は金縛りにあったようだった。なぜ彼がこんな話を始めたのか誰にも分からなかった。会場の広さにくらべて、客の入りが少ない歌手にしては少々感傷的すぎる気もした。同情をねらって自意識過剰にあたり空虚な人間性だけが響いたようだった。
さらに彼は誰も聞いていないのに「自殺だけはやめよう」が生まれたきっかけを「これは深いよ」と前置きしてから嬉しそうに説明を始めた。ハードルを上げるというより、自分の首を絞めているように思えた。彼によると、この曲は「考えすぎて自殺するのは良くない」という意味が込められているとのことだった。「それは違うんじゃないかな」とか言った。どこが深いのかはよく分からないが、彼は「どんな理由があってもね」と歌詞の一部を引用して観衆にせまった。ふわっとした着地だったが、まるで最高難易度の技をキッチリと決めたかのように、挑むような目つきで会場を見渡した。「これで何もかも言い切った」というような自信満々の顔つきで話をしめくくった。 
 次の幕までの間に僕らは楽屋まで顔を出した。大友さんに挨拶した。大友さんは笑顔で顔の化粧をなおしていた。血色の良い顔でクリームを塗っていた。
ともあれ、コンサートの後で、演壇では劇が始まった。それは愉快な時間だった。悪くなかった。内容は通俗的だったが、たちまち引き込まれた。最後の会場と一体となった大団円が終わり、がやがやと出ていく列の中にあって、僕らは再び手をつないでいた。なにかが私の心に芽生えた気がした。はじけるような拍手と歓声のせいではなかった。美しい女性が目の前にいたからだった。気の合う相手と一緒に過ごす時間は「素晴らしい」と心の底から思った。
恋愛が生物学的な種の保存の欲求から生まれたことは言うまでもない。しかし僕らはセックスのマシーンではない。それに、そんなものはお金があれば、いくらでも手に入るものだ。私は愛と性欲を同一視したくない。私はそんなことより、寒いときに「寒いね」と言い合える相手がほしかった。一緒にお茶を飲んで、話し合える相手がほしかった。美しいことも一つの条件だが、眼が二つ、鼻が一つあれば十分だ。心を寄せあえるほうが大切だ。

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