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99.6不足(不平・不満)したら負け -「たんのう」解説- #3

はじめに


今回の記事は、深谷忠政氏著書の「天理教教義学序説」を出来るだけ分かりやすく、噛み砕いて説明していきたいと思います。

噛み砕いて説明しても、普段の記事より少しコアな内容になると思いますが、ご了承下さい。

昨日の記事はこちらです。

天理教教義学序説の本文を載せて、その本文を解説する形式の記事になります。

それでは本日の記事です。


<天理教教義学序説を噛み砕く>


負わされた条件づけ、意識された条件づけ



人生において最も根本的なことは、私が今、現にこうして生きているということである。つまり自然的態度に生きる限り人は環境や外的諸条件によって、さまざまに条件づけられている。このいわば「負わされた条件づけ」を「意識された条件づけ」に変えるのが成人というものであろう。

人間はなんの信仰も持たずに生きている場合、人間関係や環境、体調など、様々な外的要因に左右されながら生きています。

つまり、
「風邪でしんどいなー嫌だなー」とか
「あいつの行動にいちいち腹が立つなー」とか
起こってくる事に対して、心や感情が左右されながら生きており、しかもそういった外的要因に左右されながら生きていることに気付かず、自分の力で生きていると思っている人。

これが
「負わされた条件づけで生きている人」
ということになるかと思います。


これに対して、
病気やケガ、苦難や困難など、様々な外的要因を「かしもの・かりもの」の教えから、意識的に意味づけしていく人。

これが、
「意識された条件づけで生きている人」
ということになるかと思います。


一般人、信仰者、天理教信仰者の違い


「負わされた条件づけ」に気付かずに、ただ自分で生きていると思う人、これが、いわゆる世界並の人であり、それは未熟な状態といえるであろう。
こうした原始的未熟な状態から「負わされた条件づけ」に気づき、生かされているとおもう人が信仰者一般である。
それをさらに高度な「意識された条件付け」に深め、「身上かしもの・かりものの理」すなわち「十柱の神の守護」によって私の生を意識的に条件づけようとするのが、世界のだめの教えである天理教者の在り方である。


「未熟な人」
「負わされた条件付け」に気付かずに、自分の力で生きていると思う人。

「一般信仰者」
「負わされた条件付け」に気付き、生かされていると思う人。

「天理教信仰者」
「かしもの・かりものの理」「十全の守護」を用いて、意識的に自分の生に意味を見出す人。



心の真実の在り方が「たんのう」


おさしづ
人間というは、身の内かしもの・かりもの、心一つが我がの理 
明治22年6月1日

人間というものは、身はかりもの、心一つ我がのもの。たった一つの心より、どんな理も日々出る。
明治22年2月14日
「我が理」「我がのもの」である心の真実の在り方、つかい方、それが「たんのう」(足納)かりものの身体の在り方、使い方、それがひのきしん(日の寄進)であり、たんのうの心が治まりひのきしんに励む、それが誠真実である。

信仰者として理想の在り方
心の在り方:たんのう
(親神の親心を絶対に信ずるがゆえに、自分のおかれている状況をまるごと受け入れる心)
身体の使い方:ひのきしん
(親神様への感謝の気持ちから発露する行いや態度)
この二つが揃うことで、誠真実となります。

誠真実とは何か?と聞かれると、
「口と行いと心、この3つが揃うこと」
とよく言われますが、その口と行いと心の中身が、
「たんのうの心」と「ひのきしんの態度」
になると思います。


「たんのう」を使う場面


「たんのう」という言葉が使用されるのは「自分の意欲を直ちに満たそうとする要求」があるために、「思うようにならない事態」が現れてきた時における自分の心の治め方としてである。


「直ちに満たそうする要求」
とあるように、苦難や困難に出くわした時、今すぐに自分の欲を満たそうとするから、
「思いもよらない事態」が起こった際に不足心が生まれます。

その不足心が生まれないようになる思考法が
「たんのう」です。

日常生活の中で、病気になるほど思い通りにならない事はありません。
そのため、おさしづのでも、ほとんど全ての身上諭しの中に、たんのうという言葉が登場します。
様々な身上諭しがありますが、
「たんのうで全て救かる」
と言われるように、
「たんのう」は身上諭しの切り札といった感さえあります。

たんのうは
「諦めること」と間違われ、
「辛抱すること」と混同され
「満足すること」と同一視される場合があるが、
たんのうには、これらの言葉と異なった独自の味わいがある。

この言い回しは個人的に好きです笑

「たんのう」は、「諦め」や「辛抱」や「満足」といった言葉とは意味が違います。

あきらめや、忍耐や、満足というものは、いずれも自分の立場を、ただ現在の立脚点に立ってのみ眺めているのであるが、これに反してたんのうは、自分の立場を自分本来の基底となっているものから、振り返り眺めるのである。

(「自分本来の基底」とは、この身体は親神様からのかりものであること、十全の守護で身体が働いていること)

前者(自分を現在の立脚点に立ってのみ眺めている人)は、
自分の力で生きていると思っている人
(負わされた条件づけ)
の心づかいであり、
後者(自分を本来の基底となっているものから、振り返り眺める人)は、
親神様の力で生きていることを納得した人
(意識された条件づけ)
の心づかいです。

たんのうの心づかいを諭されているおさしづの中に

銘々あんな身ならと思うて、銘々たんのうの心を定め。
明治21年1月8日

年々事情からあってたんのう。
明治21年3月27日

世上見て身は一つたんのうをせねばならん。これだけ尽くし思うのに、何で身が悩むと思う。
明治22年6月18日

などの諭しがあるが、これは「他人」を見たり「過去」を見たり「世間」を見たりして、それらとの対比校合において、さらにわれわれ自らの人間としての本来的基底へと心を立ち戻らせるとき、そこに、おのずと心からの納得もできるものであって、かくて絶望した人の心にも、新きたな生る力が湧き起こってくる「もと」を教えられたものである。
(「新きたな生る力が湧き起こってくる」ですが、これはおそらく印刷ミスで、「新たな生きる力が湧き起こってくる」が正しいと思います。)

「他人」「過去」「世間」と自分を見比べ、かしもの・かりものの理に判断基準を置くとき、絶望した人の心にも、新たな生きる力が湧き起こってくる。

「たんのう」は、新たな生きる力が湧き起こってくる元であると、おさしづで教えられています。

本日はここまで、続きは明日更新します。

※あくまで、僕が分かりやすく噛み砕いた内容ですので、参考程度に留めていただけたらと思います。


おまけタイム


どーも!足が手先並に器用になりたい男
ほこりまみれ信仰者こーせーです!

足でスマホを操作したり、キーボードが打ち込めたら、めちゃくちゃ楽なのにと思う今日この頃です。

そうすれば、両手で子供を抱っこしたり、他のことに使えて、効率2倍の素晴らしい生活を送れると思いませんか?

そうすれば、日付が変わった頃から記事を書かなくてもすむと思いませんか?(切実)

手以外で操作できるスマホかパソコンを誰か頭の良い人が開発してくれないかなーと思っているのですが、音声認識が1番現実的ではないかと思うので、音声認識で句読点を打ったり、改行したりする素晴らしいアイデアを、誰か早く思い付いて実用化して下さい!

※調べてみたら、句読点や改行出来ました!あとは、漢字の変換間違いを直す方法があれば最高です!


本日も読んでいただきありがとうございました!


ほな!








サポートして貰えたら、そりゃめちゃくちゃ嬉しいです!