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202.信仰を楽しむ時代


はじめに


「ありがたいから信仰する」
「バチが当たらないように信仰する」
「正しいと思うから信仰する」
「心の支えとして信仰する」
「親が信仰してたから信仰する」

などなど、従来から存在した信仰する動機に加えて、現在圧倒的に勢力を伸ばしているのが、

「楽しいから信仰する」

ではないかと最近強く感じるようになってきました。

これは、
「あなたが信仰する理由はなんですか?」
という質問に対しての答えとしては出てきませんが、「潜在的な信仰理由」として、楽しんでいる方が増えているという僕の肌感です。

そして、これはもう間もなく(というかすでに)積極的に信仰している人達にとって共通認識になると思うので、そのことについて考えていきたいと思います。


「楽しいから宗教を信仰しませんか?」は胡散臭い


皆さんは「楽しいから宗教を信仰しませんか?」と誘われるとどう思いますか?
「この言葉には裏がある」と思い、ほとんどの人が警戒すると思います。

そもそも、一般的に宗教は楽しい」というイメージからかけ離れていること思います。

そんな状態ですから、
「宗教が楽しい」と言っていまうと、宗教にあまり詳しくない人からすれば、
「あの子騙されてるんじゃないか」
と思われてしまうのは、まさに定番中の定番です。

また一般的に見て、世界三大宗教と言われるキリスト教、仏教、イスラム教を信仰することに「楽しい」という言葉が結びつかないことから、
「楽しい宗教ってカルトじゃないのか」
と想像してしまうことは容易に考えられます。
(もしこの三つの宗教に「楽しんで信仰する」といった教えがありましたら知識不足ですみません)

つまり、
「宗教は楽しくない」
「宗教が楽しいなんて怪しい」

これが世間一般の宗教に対するイメージだと僕は考えています。


宗教の何が楽しいのか


「信仰活動」と「楽しい」繋がらないため、「楽しいから信仰しない?」と誘われて想像される楽しさは、恐らく、イベントやレクレーション的な楽しさを想像するパターンが多いのではないでしょうか。

つまり、「信仰活動」と「楽しい事」は別々だと考えているということです。

「イベントは楽しいけど信仰活動は楽しくないでしょ」
「イベントは、お祈りとか信仰活動とかをさせるためのエサなんじゃないの」

宗教に縁のない方は、こんなイメージを持たれているのではないかと想像します。
(多分そんなに外れていないと思います)

天理教でも、
「直会(飲み会)が楽しいよ」
なんて言うことは、ざらにありますので…
(実際に楽しいので僕も言います)

しかし、今回僕が言っている「楽しい」とはそういうものではありません。

純粋に「信仰そのものが面白い」という時代が、ようやくやって来たと思うのです。

僕は天理教信者なので天理教を例に出しますが、

「教理勉強が面白い」
「おつとめが面白い」
「おたすけが面白い」
「布教が面白い」

このような考え方が、今後どんどん主流になっていくことは、この先間違いありません。

なぜ、信仰活動が面白いと思えるかというと、その根本には、教祖が何度も繰り返し多くの人に言って聞かせていた。
「先を楽しめ」
という言葉がキーワードになってくると思います。


先を楽しむ=今の困難を楽しむ


「先を楽しむ」
という考え方は、天理教の特徴と言ってもいいかもしれません。

稿本天理教教祖伝逸話篇にも、教祖が「楽しめ」と言った話は沢山載っています。

教祖自身も楽しんでいましたし、特に、
教祖は、困難や苦難を楽しむ達人でした。

例えば、警察に出頭しなくてはいけない時も、いそいそと歩いて警察署へ向かわれたりしていました。

これも全て、この道(天理教)の将来を楽しみにされていたからです。

そして、教祖が「楽しめ」と言われたり、勇んでいる描写が残されているのは、決まって人々が苦難や困難に直面して気持ちが塞ぎ込んでいる時です。

つまり、
「先の楽しみ」と「苦難や困難」は二つ一つ(2つで1つ)のセットと言えます。

最初は苦難や困難に直面した時、
「先を楽しみに頑張ろう」
と自分を奮い立たせなくてはいけないかもしれません。

しかし、段々この考えが身に付いてきたら、
「苦難や困難自体を楽しもう」
と思えるようになってきます。

先程、

純粋に「信仰そのものが面白い」という時代が、ようやくやって来たと思うのです。

このように「ようやく」と書いたのは、「信仰を楽しむ」というのは何も新しい考え方ではなく、むしろ教祖が何度も何度も繰り返し説かれていたことであり、
「原点回帰」にあたると思ったからです。


クローズドコミュニティーは有力な信仰を楽しむためのツール


しかし1人で信仰活動を楽しむことは、生まれ持った才能がなければ普通の人には中々難しいことだと思います。

ですから、1人ではなく大勢で信仰を楽しめば良いんです。

今はスマホ一つあれば、多くの同志と繋がることが出来ます。

先日、あるグループ内でメンバーが野宿布教(断食有)の様子を、随時SNSにアップしてくれました。
その日はあいにくの雨天で、野宿布教をするには最悪のコンディションのため、普通なら勇めません。
しかし、SNSで発信することより、グループ内でその野宿布教自体がエンターテイメント化し、とても楽しむことが出来ました。
(しかも二日間でおさづけを10人以上に取り次ぐことができ、通い先まで出来るという結果でした)

教理勉強も1人で続けるには才能が必要ですが、仲間とすれば続けられます。

信仰を持つ者同士が、互いに支え合い、助け合い、勇ませ合うことが、クローズドコミュニティーの中では起こっているのです。

「信仰を楽しむ」ために、クローズドコミュニティーはかなり有力なツールだと思います。


まとめ

「信仰を楽しむ」という行為は、
「ありがたいから信仰する」
「心の支えとして信仰する」
「親が信仰してたから信仰する」
こういった答えと矛盾せず、共存することが出来ると思います。

今まさに、教祖が何度も繰り返し仰っていた「楽しめ」という言葉の重みを再認識する時では無いでしょうか。



おまけタイム


どーも!毎日更新を終えて睡眠不足を解消した男
ほこりまみれの信仰者こーせーです!

毎日更新を終えて、早くも5日が経過しました。

とりあえず、ここ数日の感想を言うと。

1、こんなに何も考えずにお酒を飲めた日は今年一度も無かった
2、記事に出来なさそうな本や文章も気にせず読めるようになった
3、寝れるようになった 

こんな感じです。

今まで通り、毎日更新できそうなら、更新してやろうとも考えていたのですが、全然記事を書く余裕がありません。
僕が今まで、いかに睡眠時間を削っていたかと言う事もよく分かりました。

もうすでにあの頃には戻れそうも無いのですが、流石に5日間も更新しないのはサボり過ぎな気がするので、もう少し頻度を上げて記事を更新していきたいと思います。

あとうちの子のかわいさを自慢したいのでサムネにました笑


本日も最後まで読んでいただきありがとうございました!


ほな!









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