188.おさとし座談会 昭和初期の先人はどんな「おさとし」をしていたの?


はじめに

「みちのとも昭和10年2月5日号」に当時活躍されていた先人達がどのような「おさとし」をしていたかのかが、「おさとし座談会」の中で語られていたので紹介させていただきます。

メンバー
芦田義宣
岩井孝一郎
岡島藤人
柏木庫治
小西浪一
河野誠
田代澤治
中澤隼人
渡邊伊勢吉
道友社
上田理太郎
高野友治


先人はどんな「おさとし」をしていたのか

柏木
私はどんな病人や事情の人に対しても、絶対に、身上さとし、いんねんや埃のさんげをさせない。と言うと妙に聞こえるかも知れませんが、私の主義は、「助ける理が助かる」といふ教理を強調し、それを実行させるのです。「神様は、助ける理が助かると仰せられている。だから人助けをしなさい、そのまま助かる人になりなさい。私のように天理教の先生になりなさい。」こう話します。

常岡
私には何の準備もない。白紙で行って、その人に言うべき事だけを言う。およそ、お助け人は、神の思惑を言うのが本質的使命であると思う。神の思惑を言わして頂くには、日々常に、絶えず自分のものを放していく。つまり、絶えず伏せ込んだ理を頂戴していく事にあると思う。

芦田
私はお助け上の実際の経験はあまり持ち合わせてはいない。が、今もそう思っていますが、「お助けを乞われた時に受けた感じ」これがほとんどお助けの成績を左右しているように思われる。(中略)おさとしは、浮かぶ理が天の理で、それより他には何もない。しかし、その浮かぶ理が神の声となって病人に伝わる場合と、伝わらない場合とがある。それは助け人衆が神様に近づいている時と、遠ざかっている時の相違ですね。

小西
大体病むと言うことは、人間心を台としているから、肉体の悩みが起こるのであって、人間心の裏を通すのがお助けの道であると思う。それで私は病んでいる姿を見てやる。そして見上に現れている人間心の裏を通すと言う事にしています。が結局は納消ですね。

中澤
今神様は何の要求をされているかと言うことを見極める。言葉を変えれば旬々の神様の思召をしっかりと掴んでおたすけの座に侍るのが大切だと思います。

渡邊
私は身上事情の人に会うと、その人をほめ上げる。決して、喜ばすために上手を使うのではない。私の信仰からその人の身上事情を喜ばずにはいられないのです。神様は可愛いからこそ子供を叩いておられる。親神様のお慈悲だ。神様の思召に添うて行かれる道に導かれたことは、実に貴方は徳者だ、因縁の良い人だ、このみちの時旬に引出されるとはどんなに幸福なことかも知れない。
身上事情はみちの花ということを強調するのです。これが徹底すれば、憂鬱が消し飛んでしまう、必然的に喜びが湧く、これが御守護頂く台となるのです。

岡島
私は、おさとしをする自信がありません。病人の枕元でお話をするような勇気がありません。病人の姿を見ると一も二もなく同情してしまう。苦しかろう、一緒に神様にお願い致しましょうと心から病人の苦しみに泣いてしまうのです。が、相談を受ければ、相談はします。自分から口を切っておさとしする勇気はありません。

河野
私はどんな場合でも、必ず助かることを前提とする。そして病人を勇ませる、喜ばせる。大病の時なら、私はそのいえに泊まり込んで、出来る限りの心を尽くして、病人の世話をさして貰う。(中略)
 大体病んでいる人は自分の徳の自覚が足りないのです。人には大なり小なり徳はあるものです。そん得の自覚が足りないから、ここに悩みが生まれるのではありませんか。自分の徳の自覚が生まれてくれば、卑下する事もなくなりましょうし、喜びもたんのうも出来る。助かる理が生まれてくる、徳を自覚さす、これはたしかに病人にとっては大きな喜びです。その喜びを足場としてお助けにかかります。

※一部現代仮名遣いに直しています。

これは、布教師にとって参考になる意見が多いですね。

これら各先人の「おさとし」の要点から、大切なポイントは2つあるように思いました。それは、

1、喜ぶ(暗くしない)
2、神様の思召を伝える

以上の2点です。

つまり、おさとしをする際に心に収めておくべきことは。
「全ては陽気ぐらしに繋がっている」
と。心から理解することで、心に明るさが生まれ。

「神様の思召とは、陽気ぐらしへを実現するための具体的な方法」
だということを理解することで、より良い方向に舵が切れる。という事になるというのとです。

この座談会では、更に柏木氏がはっきりと自身の見解を述べられています。

柏木
何と言うても喜びと勇みとが病人には第一必要条件だ。私は大きな声で怒鳴る「病気じゃありゃせん」病気に関する話は一切しない。正直な所、実はおさとしを知らないんです。(一同大笑)病人を喜ばせ勇ませ、病人と無二の友人になる。そして、前に話した「助けたら助かる」理を強調して実行さす。この手です。渡邊さんの「この手」です。万病一式です。

相手に助かってもらうために、
「人助けたら我が身助かる」とうことを相手に実行させる。
これが大切だと言う事です。

しかし、実際に助けを願っている人に人助けをさせることは、とても難しいように思います。

「馬を湖に連れて行くことは出来ても、水を飲ませることはできない」

と言う言葉がありますが、
相手に人助けをさせると言うのは、まさにこの状態と全く同じ状態だからだと思います。

おそらく柏木氏は、この「馬に水を飲ませる」と言うことを、本気で行っていたのではないでしょうか。

水を飲ませる事に人間は関与できませんから、神様が働いて下さるように本気で徳積み(理づくり)をしていたのだと思います。

この座談会を読んで感じた、布教師にできることは、
馬を湖に連れて行った後に、ただ待つのではなく、水を飲ませる努力をする。

つまり、人助けたら我が身助かるを実行してもらえるように、神様にお働き頂くことを願い徳積み(理づくり)をする。

これが重要になるのではないかと思いました。


おまけタイム

どーも!やっぱりzoomは楽しい男
ほこりまみれの信仰者こーせーです。

普段はあまりzoomもできないのですが、今日は、嫁と子供がぐっすり寝てくれたため、久しぶりに日付が変わるまでzoomをしていました。

そして、そこから記事を書かなくてはいけないのに、ついつい漫画「銀の匙」に手を出してしまいました。

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「銀の匙」って、この年齢になって読んでみると農業漫画ではなく企業系ビジネス漫画だと言う事に気づき驚愕しています。

農業高校生が企業し会社を軌道に載せることが、後半の主軸になっているので、マジで関心しかなかったです。

下手なビジネス書よりも面白いし参考になると思ったので、まだ読んだことない方は一度読んでみて下さい。

本日も最後まで読んでいただきありがとうございました!

ほな!









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